木蓮のいとおかし日記 名古屋お出かけ日記
愛知県 東浦町 於大公園に 行ってきました
子守に ついていっただけなんですが (*^-^*)
於大さまは 徳川家康公の 御母上で
麒麟がくるでは 村木砦の戦いに出て来る 緒川城です
⑤緒川城
信長公記には「小河」と記載されている。この時点で那古屋城からは村木砦と寺本城とで分断されており、やむなく暴風のなか熱田から海上を南に移動し知多半島南に上陸して入城。その日(1月23日)の夜に軍議をし翌早朝から移動して戦うという、かなりハードな戦い方。兵士もしんどかったかもしれない。現代社会なら結構ブラック企業(^-^;。
村木砦平定翌日には、西に転戦し寺本城を叩き(疲弊しているだろうに何という働き。。(^-^;)、那古屋に帰還。21日に那古屋を出て27日に帰城する!これだけ激烈に戦って1週間で戻る!信長の非凡さ半端なし!
報告を聞いた道三が「恐るべき男だ。隣国にはいてほしくない人物だ」といったのは本心と思う。ドラマの最後、深芳野が河原で死んだ場面より、この報告をきいた道三が「じゅうべえ。信長はわしの想像をはるかに超えるたわけじゃ~。どわっはっは。(これはますますヤバくなってきたわ)」なんてくだりを挿入し「俺は隠居する。あれにはかなわん。義龍。お前に家督を譲る」とかしたほうがよかったかなあ~。道三があんな感じで愛人に涙流したりするかな~。なんて ^ ^
新潟さまのブログより
④村木砦の戦い
信長公記の記述を図面に落としました。道三からの援軍は安藤守就がきて⑥那古屋城下に布陣した模様。道三からこの砦攻めを毎日報告しろと指示はあったが、その役を光秀がやったという記録はない(^-^;
戦いは天文23年(1554年)1月24日早朝より。東の大手門から水野信元軍が、西の搦手(裏門)からは信長の叔父、織田信光軍が、堀が深く最も攻めにくい南からは信長が攻めたという。この布陣からも信長が非凡な大将であることが感じられる。自らの鼓舞で兵が何倍も勇猛に戦うのを理解してた上の布陣と思う。記述から鉄砲の弱点を知った上での使い方をしており、のちの長篠合戦での鉄砲活用の下地はこの時から作られていたのでしょう。ただ、予想外に多くのみかたが死んだのかもしれません。戦が終わり亡くなった家臣の前で涙を流した。というくだりは信長公記にもあります。自分の誤算で多くを死なせてしまったことに対する自責の念か。いずれにせよ、この時点の信長は人間味あふれる頼れる大将だったのでしょう。
新潟五郎那さまの ブログより
いよいよ来週 風間俊介徳川家康 登場ですね
楽しみです (*^-^*)