ポリーニ死去に伴ってYouTubeでいくつか動画や録音を視聴していたが
これには驚いた↓
ポリーニは、少なくとも1970年代を中心とした10年から20年程の間は
ピアノ演奏の「最高峰」と言える高みに達していたのだろう。
それをもっと長く維持するのは不可能だったように見える。
ポリーニ全盛の頃、否定的なある音楽評論家が「この人はピアノを弾いていて楽しいんだろうか?聴いていて苦しくなる」と疑念を呈していたが
「正確無比」「精密機械」と言われるほどの厳しい完璧性に達するには、そんな犠牲もあったのかもしれない(確かにポリーニが演奏する様は苦しげに見えた)。
それだけに息が詰まるような消耗性の演奏(生み出される音楽は素晴らしい完成度にあるが)を長く続けてゆくには
無理があったのかも。人間として。
「30年もの晩年」と言われるほど、完璧性を失って後もポリーニのキャリアは続いていたが
ポリーニが「完璧さを誇っていた」とするのは世間の見方で
当人は案外、完璧にとは立ちゆかなくなった自身の演奏にホッとしていたのかも。高みから下界に降りたポリーニ。
余人の及ばぬ完全性にひと度到達した人が、ミスに揺らぐ演奏とどう折り合いをつけたのか興味深いところだが
折り合いがつかなければ30年も演奏活動を続けずに表舞台からは身を引いていただろうし、それこそ以前のような沈黙期があってもおかしくない。
完璧さに殉ずることは、ポリーニはしなかった。
ただ、演奏スタイルも変わることがなかったように見える。その長期に渡る晩年にもっと適したスタイルがあったのでは、という気はする。
単なる劣化ではない、自律的な脱皮と変貌による新たな境地へ進めたのでは、と
(この辺は少しホロヴィッツの晩年も想起させられるし、既にキャリアを積んだ後の自己否定と研鑽で70歳代以降に絶頂期を迎えたルービンシュタインとは対照的でもある)。
何か重大な病気などあってのことなら、話はいろいろ変わってくるけれど。
詳細な伝記は、いずれ発表されるだろう。
かつて新録音としてベートーヴェンの《ワルトシュタイン》と《テンペスト》(’88年)を聴いた時
容赦なく強打される和音(前者)や、アレグレットの指定にそぐわぬハイテンポで進みまくる第3楽章(後者)に
この人はこういう風にしか弾けないのだな、と思ったことがあった。
それまでの「即物的」「機械的」との一部の批判にも合点が行った。機械は時に加減を知らない(例のエチュード等ではそうした加減まで含めて「正確無比」だったのだが)。
最初に接したショパンのエチュードを頂点に、ポロネーズ、プレリュード、ソナタへと、ベートーヴェンでは後期ソナタから協奏曲へと、もちろんエチュード並みに最高のものと思う演奏もあったけれども、少しずつ少しずつ、自分の中で感じていった違和感に明確な回答が出された。
それ以降はポリーニの新録音にほとんど期待しなくなった。その後のショパンのスケルツォ/バラード、進行するベートーヴェンのソナタ全曲録音、新しいレパートリーのドビュッシー/エチュード等は予想通りの弾きざまだった。2000年代のノクターン全集となると、もはや聴いてもいない(それらは早々に始まったポリーニの衰えと軌を一にしている)。「これ以上何を望もうか」と。
既に確立したスタイルを変えることができない融通の利かなさ。その点でポリーニは器用な人とは言えない。完璧な演奏をしていた頃以来のスタイルと、テクニックの衰えの間に齟齬が生じてゆく。音に力が入り過ぎたりテンポや間が性急になるなど、抑えが利かなくなることも増える(それらは完璧と言われていた当時から僅かに垣間見られた傾向だけれども、露わになっていった)。ミスタッチ以上の問題だ。
身に起こる変化に対応した演奏スタイルが得られていたら…と、遺憾に思う。
キャリアの始まりの頃に世に問うた演奏で頂点を極め、終生それを超えられなかったという意味では
デビュー盤の《ゴルトベルク変奏曲》で頂点を極めてしまったグールドとの共通性も感じられる(ポリーニが異なるのは「才能の浪費」はしなかったこと。そしてグールドが個人として伝説化したのに対してポリーニはクラシックピアノ界を一新した)。
そういう演奏家もいるのだ。到達した境地があまりにも高かったがゆえに。
永遠不朽の名盤を遺し、当時「世界最高峰」だったことは、やはり間違いない。
※全て個人の見解です。
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