12月20日は父の百箇日だった。
あれからもう3か月。
早いっ
妹たちも帰国してしまったし、今回はコロナが猛威を振るってたので医療従事者や介護関係の親戚は欠席にしてもらった。
なので少人数でひっそりと。
賑やかなのが好きだった父ですが、この状況では仕方ない
そして、高速飛ばして久学寺。
カーナビが慌てさせるから大急ぎで来たものの、途中、ちょっと休憩したら、予定よりも40分くらい早く到着するやん
純正のカーナビはほんまアテにならない
四十九日の時に訪れた時は、暑くもなく寒くもなくでちょうどよい季節だった。
「きっともう少ししたら紅葉もするのかもね~」なんて話してたけど、
今回は超寒い
孫たちが「きゃぁ、きゃぁ」と喜んでいたので見に行ったらカマキリが凍死してた
カマキリって冬眠とかするのかなぁ。
間に合わなかったのかなぁ。
帰り道、冬枯れの景色の中を走る。
父が15歳くらいまで暮らしていた田舎。
三ノ宮で働くようになって、独立して大阪に来てからは、ほぼミナミの街にいたんじゃないかなぁ。
それほど繁華街が好きで繁華街が似合う人だった
それでも、盆と正月は必ず田舎に帰ってきてた。
これは欠かすことなかったんじゃないかなぁ。
なので、父は田舎の墓地に入った。
生前、自分で整えて入った。
本望なんじゃないかと思う。
それにしても思う。
死ぬってことは、忽然と消えることなんだ
何もかも残して忽然とその人だけが消える。
けれど、残された者の心の中には永遠に存在し続けるんだな。
居なくなった人の存在感はとても大きいってことに改めて気づかされた。
楽しみ上手だった父は、もうとっくにあの世で楽しい仲間を作って楽しんでいると思うけど、こちらはなんともいえないような切なさが交差する
空を見上げたら「これが死ってものなんや」って父が言っているような気がした。