リヒャルト・シュトラウスに学ぶ。 | ルチアーナの音楽時評・アラカルト。

ルチアーナの音楽時評・アラカルト。

40年以上に及ぶ音楽家としての筆者の活動と
その経験から得た感動や自らの価値観に基づき
広く芸術、エンターテイメント等に独自の論評を
加えて参ります。現在小説 愛のセレナーデと、
クロス小説 ミューズの声を随時掲載中です。
こちらもご覧頂ければ幸いです。

私は先述このブログ内でR・シュトラウスに付いてその人となりを彼の行きた時代を背景にその芸術と時の政治とそれを支配する権力との丁々発止、心情的な立ち回りが如何なるものであったかを記した。20世紀の生んだ最大にして最高の巨匠、史上最高の作曲家であった彼はまさにゲルマン民族統合の誇りであり世界に轟く名声を勝ち得た音楽芸術の巨人であった。時はヒトラー率いるナチスドイツが欧州の覇権を狙い第三帝国の形成と共に悪しき民族主義がユダヤ人への弾圧と大量虐殺の悲劇を生んだ歴史上最も陰惨なる時代である。この独裁政治と第二次大戦の惨禍がもたらした恐怖の連鎖の中、シュトラウスはただ一人時の権力者ヒトラーに徹頭徹尾、反抗するのである。そしてそれは彼なりの政治的心情や思想の成せる技では必ずしもない。彼の想いは単純明快ただ一つ、自らの創作の価値を認めその作品個々の評価に正当な判断を与えてくれたならどんな民族であれ心をひとつにして芸術によって結ばれていたいと言う事そこに尽きるのであった。彼の心情に多民族を侮蔑する様な意思は全くない。ユダヤ人であろうと黒人であろうと東洋人であろうと関係はない。平たく言えば自分の音楽を好いてくれるなら何人でも全く構わなかったのである。実に純粋な気持ちである。しかしこれこそ、かの権力者ヒトラーには最も許せない事であったのだ。さりとてアーリア人の純潔が生んだドイツの宝大リヒャルト・シュトラウスに手をかける事は流石に出来ない。その様な事をすればヒトラー自身の政権基盤に大きな亀裂が入りかねない。それだけシュトラウスの発信力は絶大だったのだ。そこでヒトラーはシュトラウスを幽閉する選択行う。目、耳、口を事実上ふさぎ、シュトラウスの社会的な言動を圧殺する事で影響力を完全に削ぐ虚に出るのである。だがシュトラウスはめげない。…っと言うより彼は今まで通りに良い意味で破天荒であったのだ。息子の嫁にはユダヤ人を選び、強制収所に足を運び息子の嫁の親族だと言い放ち直ちにユダヤ人収容者を釈放する様、直談判まで行ったのである。幽閉前にはユダヤ人作家のシュテファン・ツヴァイクにわざわざ自作の歌劇「罪ある女」の脚本政策を依頼したり、それらの行為はヒトラーに取って全てが全て歯ぎしりしたくなる程の屈辱、嫌がらせであったに違いない。こうした事実上の対ヒトラーレジスタンスは恐らく最後までヒトラーを悩まし頭痛の種であり続けたに相違ない。そして今かの戦争が終結して70年、私はこの歴史的事実からまさに学ぶべき時が到来している事をひしひしと感じずにはいられない。我々音楽家は表現者は何があろうと権力に媚び、取り込まれてはならない。偉大な作曲家、大リヒャルト・シュトラウスの偉業は個々の作品の素晴らしさと共にこうした権力への抵抗の効なる事の意味と意義をも深く教えてくれている。危険極まる戦争法案をごり押ししようと企む今の日本の政権のあり様を思う時私は心を正して改めてこのリヒャルト・シュトラウスの生涯と行動に学ぶべきである事を認識している。多くの犠牲、悲しみに満ちた戦争を経て得た【不戦の誓い】平和と民主主義を絶対に壊させてはならない。
(ルチアーナ筆。)
★今夜はシュトラウスのまさに
名作「薔薇の騎士」を久しぶりに
全曲、鑑賞する事に決めた。
ザルツブルク音楽祭での収録、
巨匠カラヤンの指揮で上演された
歴史的、誉れ高き名舞台である。