事件、事故など度々繰り返される
世情の同行は私達を呆れさせる
様なまさに、醜態の連続で
何かこの様な状況を垣間見るに
つけ、我々の心に物悲しさが漲って
しまう事に心痛が重なり合う
思いだ。取り分け身勝手な
理屈を…いや理屈にも
ならない様な事を並べ立て
あたかも己の犯罪が精神的に
不可避であったが如くうそぶくに
至っては全く持って呆れ果てる。
昨今その様な事案が多発している
のではないか。
特に言える事は今の若い世代には
人の心の痛みを理解出来ない節が
散見される向きがあると言う事だ。
勿論それは全ての若者を指して
いるのではない。
しかし総じて論ずれば心が
未成熟な証拠である事に起因する
数々の事案が生じている事も
これ又、歴然たる事実である。
では何故この様な状況に
立ち至ったのか。それを
考察する時、私は
かつての詰め込み教育と
極端なゆとり教育の狭間で
最も重要である筈の情操教育が
軽視されて来た事の大きさに
要因がある様に思えてならない。
学問とは、各々の分野において
筋道を立て、知識を積み重ね
或いは研究や探求、調査などを
突き詰めて行く事により
答えを導き出す事であるが
大概は行き付く先に見出す答えは
一つ。即ち正しい答えの追求だ。
しかしながら、これらの学問には
残念な事に人の心を育む要素は
皆無なのだ。一つの答えへの追求は
単一の価値観との同化を意味する。
そこには考察の最終段階での判断に
振り幅をキープする事が出来ない。
答えは一つ。結果を動かす余地は
ないのだ。所が情操教育の要で
ある芸術は違う。
想像、インスピレーション、熟慮。
あらゆる範囲で心を自由に動かし
独自の表現、独自の価値判断を
見出す事に目的があり、その答えに
一つの正解、一つの結果しかないと
言う単一的着地点を探るものでは
決してないのだ。
しかも正解がない分
人の理解を得ると言う次段階での
新たな努力も必要となる。
しかし、それとて絶対的価値に相応
するものではない。常に思考し
表現する事への飽くなき探求心を
堅持し研鑽を積む事に休息を
許さない。ここまで話を突き詰めると
芸術は苦しみの連続の中にある様
に聞こえるだろうが実はそうでは
ない。試行錯誤しながらの研鑽は
多くの多角的な価値観との遭遇を
呼び込む。従って一人よがりが通じ
ないのと同時に一つの正解、即ち
100%を求める事、自分の価値観の
押し付けが絶対に効かないのと、
並行して自分にはない発想や思考を
目の当たりに考え方に諸々の要素を
加味して柔軟に対応する事の
重要性を学ぶ事が出来るのだ。
自分と他者との思考的繋がり、
或いは駆け引き
そうした構図を常に意識の中核に
おき、自らの意思を体現する。
これが芸術の本質であり、
人間の多様な価値観に幅を持って
関わる事を学ぶ深い教養の世界の
有り様なのだ。人の意見に真摯に
耳を傾け、多種多様な要素要件を
受け入れそれを消化しつつ今現在に
おける自らの最善は何かを
模索する事又、歴史に名を残す
先人の偉業を知り感動を共有する。
こうした事柄に重きを置いた教育、
即ち、柔軟で清々しい
心を育む教育、真の【心の教育】が
今一番求められて然るべきだ。
頭の硬い教育委員会の面々には
怒られそうだが、私は今の学校の
カリキュラム編成を根本から見直し
数学や理科、英語の時間を縮小して
でも音楽、美術、そして読書を
させる時間等を増やすべきだと
考えている。本物の【美】の
体現とは如何なるものか!目で見て
耳で聴く。当たり前だが現状は
少な過ぎる。心に
感動を得ないで育つ事くらい
怖い事はない。柔軟な思考。人への
思いやり、全て清々しい心、
美しい心からしか生まれない。
そんな現状に無頓着でいては、
いつになっても荒む心を持った
人間は増え続け、悪しき現実を
好転させる事は出来ない。
そう万人が知るべきであろう。
猶予はない。手を打つなら
今である。
(ルチアーナ筆。)