我々音楽家にとって最も密接であるべき点は、当然の事ながら楽音との関わりに置いてその感覚をどう演奏に同化し体現出来るかという事、正にここに集約される。何の発音体も関せずまるで言葉の様に記憶の中に音を取り込んでいる絶対音保持者はこの確固たる条件を最も高度に有しているという事に他ならない。幼少時から楽器、特にピアノ或いはヴァイオリン等を習得した人には全てが全てでは無いもののこの絶対音保持者が多く存在する。これは特に読譜力やハーモニーを正確無比に把握するに敏なる事絶大で音楽家にとっては才能に類する範疇に属するのではと考える。残念ながらこれは私も含め晩学の徒には到底修練する術はない。これに対し相対音はどうか、これは訓練により充分、習得し得る。ある周波数の音を提示されればそれを起点にそこから何度上下しようとも正しく音程をキープする事は可能でこれはさして難しい事ではない。先年亡くなった20世紀最高の名歌手ディートリッヒ・フィシャーディスカウ、ドイツリートの神とまで言われた彼でさえ絶対音は有していなかった。なのに、あの正確無比この上ない音程と驚異的表現力、天才の名を欲しいままにした彼が
この孤高の芸術領域に自らの歌の世界を押し上げたのは何を持ってしてか!
それは極めてオーソドックスな事、喉が覚えて忘れなくなるまで、勉強、練習を繰り返すこれのみだ。…っと。
彼の言葉だ。相対音を身に付ける事自体は容易だ…がしかし、演奏の絶対的価値を引き上げる事は又、これが容易では無い。歌を歌うという事は勉強の日々に打ち勝つ精神力が必要不可欠という事だ。音楽家は孤独なものだ。テクニックなど最後の最後には自分で作り上げるものだ。それに耐えられない人間は音楽家にはむいていない。一刻も早く辞めた方が良い。日々音と格闘しよう。特に相対音でしか対応出来ない私と同じ同志の方々、オーディエンスにとっては個々の音楽家が絶対音保持者か相対音対応者かなどどうでも良い事、良い演奏、感動に足る演奏が出来た方が優れた音楽家という事になる。これを肝に免じて日々精進を重ねるしかない。これが音楽家というもの、歌い手というものだ!。
7/21現在。(ルチアーナ筆。)