20世紀最大の政治的、社会的いや歴史的汚点はやはりナチスドイツの台頭を許し、あの悲惨極まる戦火を欧州全土に拡大させた事だろう。同時に民族純化とゲルマン民族絶対優位論と言うおぞましき恐怖の思想を持って人種隔離政策を行い数多のユダヤ人を虐殺、あのアウシュビッツの蛮行を遂行せしめた取り返しのつかない歴史的悲劇。この動かし難い驚くべき事実を我々は決して忘れたりましてや許してはならない。だがそうした歴史の悪しき時代、そこに正面切って時の絶対的支配者ヒトラー率いるナチスに果敢に抵抗した気骨溢れる人物がいた。それが20世紀最大最高にしてドイツ民族の誇りとも言われた、かの大作曲家リヒャルト・シュトラウスである。彼は当初ナチスの数々の依頼に基本的には何の抵抗も無く応じていた。ベルリンオリンピックの開会に合わせその祝典曲を書けと言われればそれにも答えた。同盟国、日本の為に紀元節奉祝・祝典序曲も依頼を粛々と受け壮大な管弦楽曲に仕上げてもみせた。第三帝国音楽院の総裁への就任も快諾した。しかしそれは良いか悪いかは別として彼が政治的ポリシーを全くと言って良い程持ち合わせていなかった事に起因する。彼はスポーツが嫌いである。オリンピックなどどうでも良かったし、ウインタースポーツの主流であるスキーなども「あんなものは郵便配達人が冬場、雪深い山奥へ郵便を届ける為の道具であり、ことさら進んでやる様なものではない。」と言って切って捨てた程である。彼に取って大事な事は何か。それはギリシャ哲学であり音楽芸術を極める事それのみであった。ましてや、ナチスの掲げる民族的ナショナリズムなど彼に取っては実にナンセンスであったし自分の音楽を広く鑑賞してもらう為には寧ろ邪魔な思想であったのだ。白人であろうが有色人種であろうが、ましてやドイツ人であろうがユダヤ人であろうが、彼は彼の音楽を聴き楽しんでくれる人間なら誰でも大歓迎であったのだ。しかしこの考えはヒトラーには不愉快極まりない。だが彼には手を出せない。何故なら彼は生粋のアーリア人、ドイツ源流ゲルマン民族の英雄だったからだ。リヒャルト・シュトラウスはナチスの蛮行が甚だしくなるやこの自らの思考に準じて行動を起こす。人が生きる事は何人にも阻まむ事は出来ない。民族主義など不必要な考えだと言わんばかりに…。「どうでも良い思想」とでも言うべきか!。こだわりがない全くの無頓着の極み、これが彼の強みだった。選りに選って長男の結婚相手にはあえてユダヤ人の女性を選びその親戚なのだからと言ってその権威を最大限に使い彼女の親族を収容所から助け出そうとしたり、挙げ句の果ては歌劇「罪のある女」の作曲に当たりユダヤ人作家のシュテファン・ツヴァイクにその歌詞・脚本の執筆を依頼すると言う、いずれもヒトラーの逆鱗に触れる様な実に危険な行動を平気で実行するのである。しかし尚、ナチスは彼を処分出来ない。だがここで流石のヒトラーも今度ばかりは軽視出来ない事態が起こる。それはツヴァイクに宛てた彼の書簡がゲシュタポによって暴露された事だ。その内容が問題だった。そこにはこの様に書かれていた。「信愛なるシュテファン、君が神から託された作家としての仕事、使命を野蛮な者どもの策略によって放棄するのは私に取っても痛恨の極みだと言わざるを得ない。どうか勇気を持って私の依頼に答えて欲しい。私のオペラの為にどうか台本を書いてくれ。お願いだ。何~に心配する事はない!。ヒトラーの第三帝国なんてあと数年で終わりを告げるに違いないから…。」これは自分との関わりでシュトラウスに迷惑がかかる事を恐れたツヴァイクが「罪のある女」の脚本執筆を一度は辞退して来た時にシュトラウスが送ったものである。激怒したヒトラーは思案の末、彼の公職を全て解任、アルプス近郊の山奥へと幽閉してしまうのである。だが尚も彼は全くめげない。ヒトラーが嫌がる事をわざわざやっては意気揚々と新たな音楽の構築の為それをエネルギーにしているかの様だったと伝えられている。シュトラウスの予言は的中、その後ヒトラー率いるドイツ軍は連合国軍のノルマンディー上陸作戦による大規模攻撃、ソビエト戦線での決定的敗北により崩壊第二次世界大戦は終結、ホロコーストの狂気も終わりを告げる。幾多の犠牲を強いたのかその実態すら計り知れない程のかの戦争の只中、こだわりのない純粋な生き方を貫きただひたすらに自身の哲学をを実践したただそれだけの人間、音楽家が巨大な権力を向こうに回し、果たした役割は決して小さなものではなかった事を我々は知るべきだろう。
リヒャルト・シュトラウス。名作、傑作の数々を生み出した彼の精神的原動力の背景にこうした歴史的な流れがあった事を私は心して音楽家の端くれとして恥ない生き方を今後もして行く気概を新たにしている所だ。
(ルチアーナ筆。)
「私がシュトラウスの価値観に学んだ
事はこうだ。いやしくも音楽家・芸
術家だと自ら名乗る者は如何なる時
もその時の権力に媚びない事、常に
権力の向い側に位置しその動向に
監視の眼を注ぐ事。私達は
人の心に 訴えかけるのが仕事、
もし我々が 権力の意のままに
人心を導く表現をしたらどうなるか
考えただけで恐ろしい。
戦前、戦中、我が国でも軍歌の
オンパレードだった事を…。
その末路を忘れてはならない。
最後に彼の作品に付いて…。
彼の作品は交響詩、オペラ
等、名作の宝庫だが私はあえて
短い歌曲を一つ紹介しておきたいと
思う。それは「献身」と言う。
ひたすら愛の喜びを、愛する者への
限りない感謝を綴った小品。
そしてそこには大きな愛の証と
美しい人の誠の精神が宿っている。
20世紀最高の作曲家、リヒャルト・
シュトラウスの真心がこの小さな
歌一つを聴く事で理解出来る。
素晴らしい愛と感謝の歌だ。
喝采!」