成人式のシーズン。 私の住む過疎のまちでも、成人式が行われる。

 

運営は毎年、新成人の有志が行う。 ひと昔前、「荒れた成人式」の反省から行われだしたシステムだ。(私のまちは特に荒れたことはなかったが)

 

動画上映、中学時代の先生の登場。 そして新成人の代表から語られるのは、「私たちはこのまちに生まれ育って・・・」という故郷への「愛」だ。

 

列席した市長、市会議員、その他団体の代表者は、嬉しそうな顔をして聞く。

 

会場内外には、朝から張り切って準備したお母さん、ばあちゃん、親戚などが集まる。

 

終われば、振袖姿の娘孫、友達どうしで笑顔の記念撮影。 お決まりの光景だ。

 

 私も成人して10年。ある団体で活動している関係で、成人式の会場にはよく行く。 しかし、特に嬉しくはない。 むしろ、「いつものことか、くだらないな」とさえ思う。

 

もちろん、口には出さないし、出せない。 「振袖きれいだね」「成人式っていいね」って、みんなと口をそろえる。 よくある「同調圧力」。

 

私がなぜそう思うのか、それは、「成人式」を苦痛にしか思えない人たちの存在だ。 成人式後、会場ロビーを見渡すと、振袖、袴を着て嬌声を上げている連中の陰で、スーッと消えていく人たちがいる。 あるいは、成人式に来てさえいない者がいる。

 

 私が小中学生のころにはこの言葉はなかったが、いわゆる「スクールカースト」の底辺にいた者たちだ。

 

例年手伝いで参加している私の目からみて、全体の3割はいるだろう。

 

 成人式は、こういう者たちからすれば、ただの「いづらい場」でしかない。 こうした人たちを見て、成人式の「残酷さ」を感じるのだ。

 

来賓の「オッサン」たちは、若者たちに地域の未来を感じる。 しかし、当の若者からすれば、そんなのはただの「幻想」に過ぎない。

新成人の「代表」が語る地域への「愛」も、白々しく聞こえるだけだ。

 

この新成人のなかで、このまちに残る人間が一体どれくらいいるだろう?

私の同級生は2割しか残っていない。おそらくこの世代もそうだろう。

 

なぜ、地域から若者は出ていくのか? まじめな人たちは、「雇用」、「遊ぶ場がない」、「地域の良さが伝わっていない」など、よくあるフレーズを並べる。

 

 しかし、それは「表向き」の理由でしかない。 小・中・高 と続く同級生間で築かれた「カースト」が重い影を落としている。

 

この煩わしさを嫌う奴らが出ていくのだ。 私のまちの新成人は、今年130人。60代のオッサンの時代は500人超、私の代で200人だった。 同級生が500人いるまちと、130人しかいないまちでは、状況は全く異なる。

 

 はっきり言って、「リカバリー」が極めて難しいのだ。

「自分を低くしか見ない」連中のネットワークが張り巡らされたまちで、一体だれが暮らすというのか?

 

 成人式を、上っ面でしか見ていない大人たち。大人が若者に描くものは、ただの「幻想」でしかないことに、早く気がつくべきだろう。