世の中のシェア文化はなんなんだ?
インスタに写真投稿、ツイートのいいね・リツイートなどなど。
吾輩思うに、これは現代人が遊び方・楽しみ方を知らないからじゃあないだろうか?
ものがあふれて、いいものわるいものが玉石混交となり、
何が良しで何が悪しかを言うにもセンスが問われるようになった。
誰だってセンスが悪いよりはセンスが良いと思われたい。
ある時誤って悪しきものを良しと言ってしまったが命取り、
「悪趣味」のレッテルを貼られてしまう。
やっかいだ、このレッテルは剥がしにくい。
そんな危ない綱渡りをするんだったら、頑丈な橋を渡った方が懸命である。
世間の多数が良しと言ったものを、センスのいいアイツが良しと言ったものを、
自分も良しと言ってしまえ。もしも否定されたら、
「でもあいつ(世間でセンスが良しとされている人)は良いって言ってるしっ!」
と反論すればいい。
他人に便乗しているのが格好悪いと思ったら、それは黙ったまま、
「お前コレわかんねーの?センスねーな!」
と強気に反撃すればいい。
多数が良しといったもの、グッドセンスが良しといったものを「良し」と言おう。
橋を渡るのも恐かったら、船に同乗させてもらえばいい。
相手の「良し」に共感するのだ。
世の中には、他人にどうみられるかを主眼に置いていない人もいて、
そういう人は自分の主張が他人にどう思われるか気にする人もいる。
そんな人たちは共感してもらうと嬉しく思う。
自分を受け入れてもらえる感覚。いいねを連発すればいい。
(中には他人がどう思おうと知ったこっちゃない、という人もいるが。)
吾輩の学生時代。
クラスではある音楽バンドを良しとする風潮があった。
誰も彼もが良しと言っていた。
さて、良しという人が何人か集まったところで、
その会話には展開が見込めない。
「いいよねー」
「それ、いいよなー」
「たしかにー」
肯定の嵐。
誰もだめなところを言わない。
吾輩はそれを快く思えなかった。面白く思えなかった。
というか、その輪に加われなかった。
人付き合いが上手にできなかった。
そんなことがあって、数年前までバンプオブチキンを肯定できなかった。
幸い今は嫌悪感を抱かず聴くことができる。よかった。
当時の吾輩は凄まじく子どもで自分中心だったのだ。
(かといって現在の吾輩が完全にそうではなくなったとも言い切れないがね。)
あと、現代の若者は、
自分から面白いポイントを探そうとしていないのではないか。
「これ面白いだろう?」とディレクションされた提供物に対して
リアクションをとっているだけのような気がする。
面白ポイントを自分で探すのは面倒だし、難しくてセンスも問われる。
吾輩の体験談、縄跳びの授業。
上手に跳べなかった友達が練習の末ちょっとだけできるようになった。
喜びが抑えきれず満面の笑みで跳ぶ友達の顔から
彼の感情が伝わってきて、それがなんとも面白く、吾輩はつい笑った。
近くにいた友達から「何を笑っていたの?」と聞かれ、
吾輩は「満面の笑みが面白かった」と答えた。
だがその友達には吾輩が面白いと思ったものが伝わらなかった。
今回のブログ冒頭に書いた「シェア文化の蔓延」は、
若者が能動的面白がりをやめて受動的面白がりにたどり着いた、
というところだろうか。はてさて。
なんだか今日のブログもひっちゃかめっちゃか。すみません。
この吾輩のブログを少しでも面白がってもらえれば幸いです。

