姿勢を良くすること。
それは何年も前から言われ続けていたことで、昔はお行儀的なところ、今では健康に関することとしても認識されてきているように思う。
私の幼少期には、よく母から背中を伸ばしなさい!と背中を叩かれた記憶がある。
今では、そんな考えも残しながら新たな考えとして、そんなに反らなくてもいいんじゃない?という考え方も出てきている。それはとてもいいことだと思う。そこには注釈として、だらけることではないんだよ!ということはあくまでも付け加えたい。
けど、そんな姿勢にしても、少し気がつくことがあった。
姿勢に気をつけようとしたとき、自分はどうしているのだろう。
これがテーマであり、そして簡単だけど難しい課題。
なぜ姿勢を気にすることがあるんだろう?
姿勢とは気にするものなのか??
いや、姿勢とは自然に発生するものであり、我々が我々人間であるがための形を形どっている。それでこそ姿勢なはず。自分たちの意思云々が働くようなものではない。それは人間の進化の歴史が物語っている。
それなのに、私は姿勢に囚われている。
さて、以前から私は出しゃばりな肩に悩まされていることが多い。それも含めて話がしたい。
姿勢を良くしよう。なるべく良い状態でいようと考えたなら、私はどういうことをしているか。
肩の揺れを感じ、そこから各関節の調整を行っていく。いまこの部分が窮屈だなぁ…じゃあ、違う方向にもっていこう。あっ!良くなった。他にはあるかな…?(この時肩を中心に身体を動かして探る)あ!ここもだ!!…といった具合に。
おやおや?待って待って。
今まで出しゃばりな肩として悩んでいたことが、雲行きが怪しくなってきた。
実際のところ、出しゃばりな肩に悩まされていたのではなく、肩を出しゃばりにさせていたのは自分で、更にその責任を肩に押し付けていたのでは?!
ごめーん!!!
案外自分にとって、悪く思えるような身体の部位も、本当は自分に責任があるのかもしれない。身体はその人の心や思いを読み取ってそれを表現しようと頑張っているだけで、身体自体が悪い訳ではない。
そう考えたとき、じゃあ姿勢をよくするなんてのは、なんて烏滸がましいことなんだ!!と申し訳なくなる。
姿勢は自然に発生するものであり、我々がどうこうするものではないし、身体から送られてくるメッセージは自分から取りに行くのでなく、身体から送られてくるものなのだから、それを常に受けるだけで十分、姿勢はその場面場面に応じた形で発生する。
ただそのとき、どこに集中するか、どこに囚われているか、自分を見失って部位だけで見たときに、その姿勢の全体性は失われてしまう。
その全体性を見失わないようにしつつ、コントロールしようなんてことも忘れ、自分を信じてみる。それだけでも十分姿勢は良くなるんじゃないかと思う。
おしまい