最近あれこれ考えることが増えた。

特に自分の在り方なんていうのは、本当にそう。

だからこそ、なんだかよく分からなくもなる。

けど、人に触れるという仕事上、恐らく自分自身がどうなのかということは大切にしなければならない。

それは、相手がどうなのか。ということよりも実は大切なことなのかもしれない。



私自身は有機体であり、人も当然有機体である。

だけど、携帯やそこらのソファや、テレビなんてもんは無機体である。

そんな無機体を触り続けていると、感覚がおかしくなる。

リアクションが一定で、こちらの働きかけ一つで変わりあるため、つまらないし、あれこれ考えなくて済む。

だけど、人ならどうだ。動物でもいい。

彼らは有機体で、それぞれに意思をもつ。

だからこそ、有機体同士の触れ合いのなかに、様々なやり取りが為される訳だ。

無機体でのやり取りに慣れてしまっていると、訳が分からなくなりそうだ。

訳がわからなくなるからこそ、分かろうとして、そして余計にがんじがらめになってしまう。

そうすると触れることでのコミュニケーションの本来の美しさが失われてしまう。




だけど、自然はどうだ。

あれこれ塞いでるときは自然に触れろ。

裸足になって大地を踏み締め、グランディングし、大地からパワーを貰え。地球を感じろ。

大樹を抱き、その生命力を感じろ。

海の行く音、返す音。そこには癒しの揺らぎの音がある。


いろんな自然を感じることで、メンタルコントロールをする。そんな話をよく耳にする。

これらは何故そんなことを勧めるんだろうか?

それがなんとなくわかり始めた。




自然も有機体ではある。だけど、人や動物ほどリアクションが大きい訳ではない。だけど無機体ほど、ノーリアクションというわけでもない。

近づくという行為一つで、風に影響し、葉の揺らぎを変えることができる。土に視線を変えれば、その下には根があり、そこを踏むことで植物の生命に関与するかも知らない。

触れるということで、形状を変えることもできるし、その触り方次第では、心地よさ、時には痛みさえも与えてくれるかもしれない。

自然とは柔らかく、しかし何かしらのリアクションを返してくれるものである。

だからこそ自分の在り方というものを、伝えてくれる。


あなたが意図しすぎなくても、相手には伝わるんだよ。ということ。

あなたが側にいるというだけで、周りに影響を与えることもあるよ。ということ。

あなたの出方次第で、相手には何通りかの変化があるんだよ。ということ。


そんなことを伝えてくれるから、人に触れるときにも、それが自信となり、そして確かに触れることができるようになる。





たまには自然に触れ、そしてその反応を楽しむのもいいのかもしれない。



おしまい