今日は仕事だった。

 

虐めてくる奴がいるが、そいつの方がADHD ASDの私より頭が切れるし

空気が読めるし、つまり仕事はできる。

 

認める必要はある。

後輩で年下、生意気だが、すいませんという必要がある。

無視するだけして、必要があれば。

 

私はラジオやワイドショーなど、雑談を一方的に聞かされる「音」が嫌いだ。

それらの言葉は全て私を責める話し声に聞こえてしまう。

 

アパートの音が怖くて、2回引っ越したことがある。

二階ならまだいい方かもしれない。

 

話し声が怖い。

 

私の幼少期は、毎晩両親が喧嘩していた。

兄は8歳上で、二人兄弟だった。

母は兄に私が生まれたから「あなたにはもう期待していないのよ」と

兄が中学生か小学高学年の頃から言っていた。

 

当然兄はグレて私にも憎しみを持つようになったのだが、

父も家庭を顧みない人間で株や、毎週のゴルフ、高い買い物などで

銀行の支店長までやったらしいが、退職金を全て株でパーにした。

 

そのことは母の絶好の攻撃口実だった。

攻撃には大抵、私の存在持ち出した「私、〜がいるのに!あの子がいるのに!」

私は自分が責められていると感じて、自分の部屋で布団を被って

聞こえないように必死だった。

 

だから、人の話し声、職場の同僚同士の会話、会議の声、

朝礼、昼礼、の声、隣の部屋から聞こえるテレビの音、

話し声。

ラジオ。テレビ。

 

一人ドライブで片道4時間かかろうが、私は音楽もラジオもかけない。

「無音」の車内で唯一の静寂を得ている。

 

私の趣味は森林浴だ。

今、森の中に行き、風と木のざわめきだけが私に存在していいよ、

というか、

木や葉、小動物、倒木、湖、小川はすべて「あるがまま」なのだ。

そこに木がある、山がある、湖がある、どんな風雨や台風、熱射、雷の下でも、

ただそこに、居る。ある。

 

だから私が森の中で座っていようが、木々達は、私のことは気にしない。

木に言わせれば、私は私。好きに風に揺られているだけ、あなたのことなんか気にしてないよ。

とでも言いたげだ。

 

それが、とても居心地がいい。

私が東京から逃げたのは、全ての雑音が、幼い頃から22歳で家を出るまで続いた、

私を責める声に聞こえたからだ。

 

木はあるがままだから、私を責めない。

私も木々に囲まれていれば話しかけてくれる感覚に包まれて、

でも返事をする必要もなく、ただ、その場だけはあるがままになれるのを感じている。