小学校の修学旅行

ふっくの学校は大阪府北部関西大学千里山キャンパスに近い吹田市内の公立小学校でその名前は東京を起点に池袋、新宿、高田馬場、品川などを通り「東京の環状線」とも呼ばれる○○線の○○小学校を出ており、修学旅行へ行ったのが昭和59年の7月29日日曜日から31日火曜日までの3日間で行先は修学旅行と言えるのかなあ。!!鏡ヶ成国民休暇村へ向かい、30日月曜日に大山(伯耆富士)を日本海側の大山寺登山口から入道、山頂を往復して帰ってくるというまあ旅行ではなくどちらかと言えば林間学習に近い形で実施、当時あまり体力がなく自分のクラスのピッチに併せて登山していたら到底最後尾になるのは担任がちゃんと見極めていた為、先頭のクラスへ編入させて登山、それでも6合目付近でばてて山小屋で休んでいたら後から追いかけてきた担任にその場で無茶苦茶叱られそのまま山頂まで登山し成功したのですが実は小屋で一緒に休んでいた肥満体の男子が先頭を行くクラスメートで日本維新の会の代表者の苗字と同じ名前の人物でその彼が下山途中で現代で例える熱中症にかかり大山寺入道口近くの登山道でうつ伏せに倒れてうなり声を上げ先生数人が不安そうに付き添い私と一緒に下山した保健室の先生が「どうしたのビックリマーク」で他の先生から話を聴き「えっ!!」という感じ、そして「先に河原へ行きなさいあせる」の指示でふもとに無事に戻り河原でスイカを貰って食べていると、救急車のサイレンがけたたましく鳴り「あっ○○だビックリマークこれやばいわぁ!!」と言った声が上がり、夕方宿舎へ戻り夜の集いで指揮代行をとる自分のクラスの担任から周知で「○○君ですが、先ほど病院から連絡があり意識不明の重体に陥っており彼のクラスの担任で〇組の○○先生が付き添っています。ニコ今日はこの後肝試しなど予定していましたがみんなキャンセルして部屋で楽しく過ごしましょう。ニコ」と言い、その後部屋に設置のカラーテレビが前日視聴してよろしいで歌番組の「ザ・トップテン」をひとつの部屋で集まって視ていたのを思い出します。ニコそれからというものの翌年からは毎年恒例だった大山登山も取りやめ別の場所に修学旅行の行先を変えたという話を中学校へ進んでから聴いたことがございます。ニコ未だに思い出します。ニコお疲れ様でございます。パー

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