蛙が井戸の中で叫ぶ。


「おい、どこの誰だか知らないが、俺様の縄張りのほうがずっと大きいぞ」


どこからか他のカエルの声が聞こえる。


「なにおう?お前の縄張りよりも俺様のほうがずっと綺麗だし広いぞ」


無数の井戸の穴からカエルの声がゲコゲコと大空に響き渡ります。


しかしカエルたちは一度も井戸を出たことがありません。


ですから、自分の入っている井戸のほかは見たことがないのです。


皆、互いの声を耳障りだと感じ、自分の場所こそが一番すばらしいと思っていました。


旅人が通りかかったとき、地元の人に、あの無数の井戸はなんだい、と聞くと地元の人は答えます。


「ああ、あの井戸にはよくカエルが住み着いてね、出られなくなるんだ。深い井戸の底にすっかり住み着いちまったみたいでね、あの通りガヤガヤとうるさいのさ」


旅人はふと空を見上げると、一匹の雁が鳴き声を轟かせながら、風に乗って空の向こうへと飛んで行きました。



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 ショーンとマリーの食卓にはティーカップが二つ。銀皿の上にスコーンが二つ。そしてティーポットは二つありました。


 二人の紅茶の趣味は別々で、ショーンはセイロン、マリーはレディーグレイが大好きでした。二人は相手の飲んでいる紅茶が大嫌いでポットですらもきちんと分けて決して相手の茶葉に触れさせることがありませんでした。


 二人はとても愛し合っていましたが紅茶のことになると喧嘩が絶えませんでした。棚を別々にして決して匂いさえもうつらないようにしているのですから、間違って茶葉が同じ棚に入っていようものなら大喧嘩です。


 この国では朝から晩まで紅茶を飲む時間を作る習慣があり、たくさんの紅茶を飲みます。特に紅茶を飲んだあとは紅茶の匂いや味がするので、二人はキスさえも嫌がっていました。嫌いならほんの少しの香りでも許せなくなるものです。


 喧嘩のあとは特に相手の茶葉の臭いがこびりつくようで、互いにとてもイライラしていました。夜一緒のベッドに入るときはついつい相手が直前に紅茶を飲んでしまったりなんてしたら、たちまち大喧嘩となりました。ムードも何も消し飛んでしまいます。


 だんだんとそういうことの積み重ねが二人の気持ちを憂鬱にさせていきました。最近では会話すらもしません。それでも二人は愛し合っていたので、なんとかしようと思いました。相手の紅茶を好きになればいいのだと思いましたが、どうしてもダメで、ますますその紅茶が嫌いになるだけでした。別の種類の紅茶で合わせて飲むこともありましたが、どうしても大好きなものは飲みたくなるもので、隠れて飲むこともありました。それがとても苦痛でした。


(もう彼とは別れたほうがいいのかな…)


 マリーの悩みは深刻でした。最近では相手の姿を見るだけでも憂鬱になりました。原因ははっきりしていても、努力してもどうしようもありません。


 ある日マリーが憂鬱な気持ちで外を歩いていると、見慣れない紅茶屋がありました。


(あれ?こんなところに紅茶屋なんてあったかな?)


 マリーは、きっと新しい店ができたのだと思い、中に入っていきました。中に入ると嗅いだこともないような、甘くいい香りがしてきました。香水とも何とも違う不思議な香りでした。みるくのような柔らかい匂いも混じっているような気がしました。


 店には見たこともないような茶葉がたくさんありました。外国のものでしょうか、見慣れない茶器や置物もたくさん置いてあります。


 奥へと進むと店員らしきおばあさんがいました。そのおばあさんは眼がとても澄んでいて気品のあるおばあさんでした。


「かわいいお嬢さん。いらっしゃい。おや、とても悲しそうな眼をしているね。喧嘩でもしたのかい?」


 おばあさんは優しく微笑みかけてくれました。


「え?おばあさんどうしてわかったの?」


 マリーはびっくりして聞き返しました。


「お若いお嬢さんは楽しいことがたくさんあるはずなのに、キラキラしている目がくすんでいたから心配になったのですよ」


 マリーは今まで誰にも打ち明けられずにいたので、とても苦しい思いをしていました。その思いを聞いてもらおうとマリーは愛している人と紅茶の趣味が合わずにいつも喧嘩してしまうことをおばあさんに打ち明けました。


 おばあさんはじっと頷きながら聞いてくれました。


「おうおう、そんなに辛い思いをしていたのだね。そんなお嬢さんにぴったりのものがあるのだよ」


 おばあさんはマリーの目の前に包み紙に包まれた飴玉を二つ出してくれました。


「この雨を相手の口と自分の口に入れてキスをしてご覧。たちまち仲直りできるよ。これを仲直りの魔法だということを忘れずに言うんだよ」


「え、でもおばあさん…」


 マリーは言いかけて言葉を飲み込みました。そんなことしても仲直りなんてできないと思いましたが、でも愛する人のために何か伝えたいと思ったマリーは、仲直りするために何かしたかったと思っていました。


「うん。ありがとう。おばあさん」


 マリーは内心、キスでどうにかなるとは思わないけれど、少しでも嫌な気持ちを落とせたらと思いました。


 マリーは恋人の待つ家に帰りました。なんとなく、重苦しい雰囲気がします。恋人も気が張っているのか、「おかえり」とも言ってくれません。マリーは声をかけることすら怖かったのですが、勇気を持って話しかけてみることにしました。


「あのね、魔法を教えてもらったの?」


 突拍子もないことを言い出したマリーに思わずショーンは声を出しました。


「ええ?なんだって?」


 マリーにとって言葉の一つ一つを出すことが勇気のいることでした。馬鹿げていると思いながらも、ほかによい方法が浮かびません。おばあさんの言葉を信じているわけでもないけれど、どうしても気持ちを伝えたかったのです。


「この飴玉を口の中に入れて眼を閉じたら仲直りできる魔法をかけるから」


 ショーンはしぶしぶマリーの差し出した飴玉を黙って口に入れて眼を閉じました。マリーは目の前の目を閉じたショーンを見て、不思議な気持ちになりました。マリーは自分の飴玉をじっと見て、口に入れました。みるくのようなやわらかな味が口の中に広がります。いよいよショーンの唇にキスをする時がきました。


(こういうことするの、久しぶりのような気がする)


 マリーは愛しい気持ちでショーンを抱きしめながら唇を重ねていきました。すると不思議なことに頭の中にショーンの声が響きだしました。


(どうすればマリーと仲直りできるのだろう。本当はマリーのこと大事にしたいのに、僕はつまらないことでマリーを傷つけてしまっているな。でもどうすればいいのだろう。どうしてもマリーの紅茶は好きになれないし、マリーは口をきいてくれなくなったし、僕も気まずくて話せないし、もう別れるしかないのか。でもそんなことは嫌だ)


 マリーは驚きました。ショーンもマリーと同じことを考えていたのです。マリーはショーンのことがとても愛しくなってきて唇を深く重ねていきました。すると口の中に紅茶の味が混ざってきました。それはショーンの好きなセイロンの味でしたが、飴玉の味が混ざっているせいなのか、なぜかすんなり受け入れることができました。そして口の中には別の甘い味が混ざってきます。イチゴジャムのような味です。飴玉はすっとなくなっていき、口の中にふわりと広がっていきました。


 マリーが唇を離すと、ショーンは眼を開きました。その眼は潤んでいます。


「マリー…ごめんよ」


「え?」


「僕と同じことで悩んでいたんだね」


「ショーン…私どうしていいかわからなかった。このままショーンと別れてしまうのが怖かったけれどどうしようもなくて」


「お互い好きなものを好きだと言い合えればいいのに、どうしてだろう。僕たちはそれができないんだね」


「でも、今ショーンとキスをしたとき、あなたの好きな紅茶の味がしたの。でも全然気にならなかった」


「え?マリー。僕もだよ」


 二人は驚いて、恐る恐るお互い好きな紅茶を試してみることにしました。すると不思議なことにまったく気にならなかったのです。


「あ、飲める」


「僕も飲めるよマリー」


「本当に魔法が効いたんだ」


 マリーとショーンは喜んで抱き合いました。


「ところでその魔法を教えてくれたお店はどこにあるんだい?」


 マリーはこんな素敵な魔法の飴玉をくれたおばあさんにお礼を言おうと思ってショーンと一緒に出かけました。


「ここよ。このお店…あれ?」


 そこにあったのは果物屋で、紅茶屋ではありませんでした。


「迷ったのかな。そんなはずないんだけど」


 マリーとショーンはお店を探しましたが結局わからずじまいでした。


「あれ?」


 突然ショーンが声を上げました。マリーが振り向くと、ショーンがポケットからなにやら出してきました。それは先ほど二人で食べたはずの包み紙に包まれた飴玉ふたつでした。


 公園に来た二人はベンチで泣いている女性を見つけました。気になって声をかけてみると女性はこう言いました。


「大好きな人と喧嘩してしまって。もう別れてしまうかもしれない」


 ショーンとマリーは、ショーンの手のひらにある飴玉ふたつをじっと見つめて微笑みあいました。マリーは飴玉を持って彼女に言いました。


「あのね、仲直りの魔法を教えてあげる」




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「やめなよー。アキコおやじみたいだよ?」


 そう私に言う友達の言葉を思い出しながら、缶ビールをプシュリッと開けて、急角度に傾けて口いっぱいのビールでのどをグビグビと鳴らしていく。


 プハー、と夜空にむけて声を上げる。「これがいいのに」と一人でポツリと言う。胃の中に流れ込む発泡の刺激が染み渡る。


 晴れの日はベランダで月を見ながら一人で晩酌するのが日課のようになってしまった。


 風に吹かれながら、仕事終わりの疲れやストレスをぼんやりしながら忘れ去ろうとすると、どうしても色々頭に思い浮かんでしまう。



「ねえ、アキコそろそろ彼氏でも作ったらどうなの?誕生日一人で寂しくない?」


「そういうあんたはどうなの?」


「え?あたし?あたしはねー。今日デートなんだ。ごめんねー」



 会社の昼休みでの会話を思い出しながら、少しイライラする。明日は誕生日だというのに、今年も確実に一人で過ごすことが決定した寂しさや悔しさが、泡のようにふつふつと怒りとなって湧き上がるようだった。


「なにが、ごめんねー、だ」


 一気に一缶を空けてしまい、冷蔵庫から二缶目を取ってきて、飲み始める。


「あたしのほうがちゃんとしているのに、あたしのほうが仕事もできるのに」


 ビールを飲みながら一人ベランダでぶつくさと独り言を言っていると、まるで自分自身を慰めているようで惨めになる。そのことが余計に腹立たしかった。


 思えば毎日のようにイライラしている。会社でも家でも、まるで心の休まる暇がなかった。何をしても充実しない。何をしても「何かしなきゃ」と思ってしまう。どうして何もしていなくても何かしていても自分が焦るのか理解できなかった。


「どうしちゃったんだろ・・・あたし・・・」


 自分で心の余裕がなくなっていることはわかっていた。時々友人にも「もっと心を広く持ったほうがいいんじゃない?」と言われることがあった。


「そんなのわかってる。でも、どうすればいいのさ」


 出口のない迷路で壁に八つ当たりする子供のようにふてくされていた。嫌なことばかりが思い出されて、そのすべてが許せない気分だった。


「それにしても、今日は月が綺麗」


 よく澄み渡った空だった。満月の光が夜空に染みこんでいるようだった。


 アキコがしばらく風に吹かれていると、空の向こう側に飛行船のようなものが見えた。


「あれ?あんなところに何か飛んでる」


 夜に飛行船?そんなはずない。飛行機なら納得できそうだけど。気球よりも横長いから絶対飛行船だ。


 アキコはビールを飲むことも忘れて、じっと月の側の黒い影をじっと見つめていると、その影はどんどん大きくなってくる。


 月の光の中に影が入ると、少し飛行船とは違う。尾びれがあって、ひらひらと動いている。イルカやサメのような尾びれが海の中のように夜空をかいている。


 その影がどんどん近づいてきて、その影が何だかわかると、アキコはただ口をだらしなく開けて驚くだけだった。


 それは巨大なくじらだった。飛行船でもなんでもなくて、自分の何倍もあるくじらだった。それが目の前に浮かんでいる。


 くりくりとした瞳でアキコをじっと見つめてくるくじらは、心の中に直接話しかけてきた。くじらの言葉が直接心に入ってくるのだった。


「そんなに気を張らずに、一緒にお散歩しませんか?」


「散歩って・・・」


 アキコはわけもわからず、唖然としていた。こんな巨大なものと、どこを散歩すればいいのか。


「風が気持ちいいので夜空をお散歩しましょう。背中に乗ってください」


 アキコは思わず見上げてしまった。大きすぎてとても背中までは遠い。くじらの背中まで登れるはずがないと思っていたら、目の前に淡い月の光のように発光したイルカが現れた。


「イルカが背中まで案内してくれるので、さあ」


 アキコはくじらに言われるままにイルカに乗ると、くじらの背中まで飛んでいった。


 その時に広がった星空の大きさが、胸の中いっぱいに飛び込んできた。月も、星も、街も、すべてがきらめいて心いっぱいに広がった。


「わあ・・・綺麗・・・」


 くじらの背中にひょいと飛び降りると、ウォーターベッドのように柔らかく体が包み込まれた。


 これは夢なのだろうかと思ったが、それにしては感触がありすぎる。


 アキコはくじらの背中に横たわりながら夜風を感じていた。さっきのビールの酔いもちゃんと残っていた。くじらの背中をぷにぷにと押してみる。ぎゅっと握ってみる。やわらかい。とても夢とは思えない。


「そろそろいきますか」


 とくじらに言われるとアキコはぎこちなく返事をした。


「それでは出発」


 くじらがふわふわと夜空を泳ぎだすと、月が目の前に迫ってくるようだった。


「凄い・・・まるで雲に乗っているみたい・・・」


 生まれて初めてアキコは月が綺麗だと感じていた。これほどまでに大きな月。これほどまでに柔らかく、明るい光。地球にはこんな美しいものがあったのだと感じた。


「どうしていままで気がつかなかったんだろう・・・」


 するとくじらが話しかけてきます。


「アキコさんは、何をそんなに苦しんでいるのですか?」


「別に、苦しんでなんかない」


 自分の答えに、きっと嘘だと思ったアキコはそれ以上に、悩みの種もわからなかった。


「自分が何で悩んでいるかもわからなくなっているのですね」


 くじらの言葉を聞きながら、アキコは月をじっと見ていた。まるで染み込んでくるような淡い光が目の前に広がって、光の中へと包まれていった。