こんばんは。
今日も、こちらにお越し下さり、ありがとうございます。
前に
「【自分にきびしくてもOK】自分にきびしい人ほど自分にやさしくなれる“理由”とは?」
の記事で
「自分にきびしい人ほど、本当は自分にやさしできる」
は書いたんですけど
それと同じように
「他人にきびしい人ほど、本当は他人にやさしくできる」
とも思ってるんです。
ここでいう「他人にきびしい」っていうのは、
何かこう「ものすごくキビシイ!」というよりは
「いや、これ、言ってあげた方がいいよねー」って思って、
何か注意する、くらいの感じです。
でもその言い方がちょっと強かったりして
逆にウザがられたり、自分でも
「あー何か、言わなきゃよかったかな」なんて
後悔というか、ちょっと、自分を責めちゃったり。
でもその後で
「いや、でも、その人の恥になっちゃうしな」みたいに思って
葛藤したりとか。
なんかそういうことって、ないですか?
特に、「自分にきびしく」が身についてる
(自分でそうかなって思ってる)
としたら、なおさら。
僕も、時々そういうことあって、
言ってから「ああ・・」みたいなことあるんですけど
あんまり、いい気持じゃないんですよね。
でも、「自分にきびしく」と同じで、
それだけ気づいてあげられるとか
「言ってあげよう」っていう親切心をもてるってのは、
すごいことだと思うんです。ほんとに。
才能というか。
気づけるのも才能だし
それを言ってあげよう
(っていうとちょっと恩着せがましい感じもしますけど)
ほんとに、すごい才能だと思うんです。
だって、ほっとくことも、
できるわけですから。
でも、その、言ったことで、相手も、ちょっと
イヤな思いにさせちゃったり、
自分も、イヤな思いになったり、って
やっぱり、イヤですよね。
(イヤが渋滞してます 苦笑)
でもそれで、
「言わないようにしよう」っていうのも、キモチワルイっていうか
何かこう、モゾモゾすると思うんです。
で、もちろん
そのモゾモゾというかムズムズを、気にしないというか
おさえ込んじゃうみたいなことも、
できなくはないと思うんです。
でも、そうすると、せっかくの才能、というか、チカラを
つぶしちゃうことになりかねないと思うんです。ほんとに。
「あー、どーせ気づいたって、感じたって
おさえられちゃうんだから、いーや」(気づける才能の声)
みたいな感じで。
だから、それは、しない方がいいと思うんですよね。
その、気づける力というか、声を、
大事にしてあげた方がいいんじゃないかと。
じゃあ、どうしたらいいか?
すごい、ベタかもしれないんですけど
言われる人の立場に立って
「どう言われたら、一番、すーっときいてもらえるかなあ」
とか
「なんなら、喜んでくれるかなあ」とか
そういうのを考えてから、言う
そういうふうにしたら
また変わってくるんじゃないかなあって
思うんですね。
「いやいや、それはわかってるし、それが難しいんだよ」
って言われそうなんですけど、
でも、それだけ
気づける(他人に関心がある)
言ってあげられる(親切心がある)わけなので、
想像して言ってあげられる素質っていうのは
ゼッタイあると思うんです。
「タネ」っていうか。
(植物のタネ、ですね)
でも、植物のタネが、
何もしなかったら、
花も実もならないように、
やっぱり、そっちの「タネ」にも
水や肥料、太陽の光を
あげていくことが大切だと思うんです。
じゃあ、水、肥料、太陽って何かっていうと
そういう場面で、ひとつひとつ、
想像していくことじゃないかなって。
それで仮に、考えすぎちゃって、
「こう言おう」っていうのが出なくて
言えなかった、でもいいと思うんです。
だって、言える言えないでいったら
言える自分はもう、いるわけですから。
何を言うか、のお話なので。
逆に、そんなことすっとんじゃって、もう条件反射みたいに
「また言っちゃった」(今までと同じみたいに)
でも、いいと思うんです。
言ったことは前と同じでも
その「想像しよう」っていう頭がある中でのそれって
ゼッタイ、違うと思うから。
なんでかっていうと、
その「想像しよう」が
なんらかのブレーキっていうか
安全作用、みたいに働くと思うので。
ぜんぜんそんなこと考えない、
無防備でいるのとは
大きく違うと思うんです。
ちょっとたとえは違うかもしれないんですけど
車を運転してて
ぜんぜん歩行者とか車とか出てこないよなー、
と思って油断して運転してるのと
「どっかから出てくるかもしれないしな」
って気を留めながら運転してるのとでは
急に何かが起こった時に
たぶん全然、対応力が違うと思うんですね。
それと同じような感じで
自分では、条件反射みたいに
前と同じ感じで言っちゃったつもりでも
実は前とは違ってたり、ってことが
あるんじゃないかと思うんです。
それに、自分の方も、
もしまた反省するみたいなことがあったとしても
「今度はちゃんと想像してから言うようにしよう」とか
「想像して言えるようになろう」とか
ただ自分を責めるんじゃなくて
「次、どうしたらいいか」の方向性がちゃんと見えての
思いになると思うので。
だから、いろんな意味で、
違うと思うんですよね。
そして、こういうのは
ほんとに、一歩一歩、だと思うんですけど。
でも、自分で書いてて何ですけど
一歩一歩とかコツコツっていっても、
なかなか続けにくいってこと、ありますよね。
目に見えにくいから、効果が。
なので、逆に、ふだんから
目に見える何かにして、練習する
っていいのかなって思うんです。
だからって、別に何もムリに
「注意したいところを探して、どう言えばいいかを想像する」
とかじゃなくても
たとえば、道で交通整理をしている方とか
お掃除をしている方とかに、
何て言ったら喜んでもらえるかな、とか
なんなら、人じゃなくて「モノ」でも
「このモノの気持ち、今、どんなかな?」みたいに、
想像してみる。
たとえば、
本棚にぎゅうぎゅうづめになってる本だったら、
「ちょっとキュウクツかな?」とか
一輪、玄関に美しく飾られてるお花だったら
「誇らしい気持ちかな?」とか
もうほんとに、答えがあるわけじゃないので
(人には聞くわけにいかないし
モノの場合はなおさら)
なんでも、自由に想像できる練習になると思うんです。
で、たとえば、人でもモノでも
今どんな気持ちかな、って
1回想像したら、1ポイント。
で、「こう言ってあげたら喜ぶかな」の
言葉まで考えられたら5ポイント、とか。
1日、〇ポイントためられたら
ごほうびでスイーツ1個、とか。
もっと見えやすくするように、
それ用の手帳を作って、ポイント分、シールを貼るとか。
シールは100均でかわいいの買ったりとかして。
もう何でもいいと思うんですけど、
そうやって目に見える形にすることで、張り合いが出て
続けやすくなると思うんですね。
すぐに、効果(ウザがられるようなことはなくなったり、
喜んでもらえたりするようになる)
は、なかったとしても
楽しくなってくるんじゃないかなって思うんです。
目に見える、張り合いがあることで。
そして、それを続けられることが、
“タネ”に水をやって、肥料をあげて
太陽の光をあげることになると思うので。
育って、花が咲いて、実がなっていくと思うので。
他人にきびしい人ほど、
本当は、他人にやさしくなれる。
だから、他人にきびしい自分も、嫌わないで。
自分にきびしいも、他人にきびしいも
やさしくなれる、“タネ”だから。
植物のタネを押しつぶしちゃったら、
もう花は咲かないように
わいてくる気持ちをおさえちゃったら、
その“タネ”も、つぶれちゃうから。
だから、押しつぶさないで
おさえ込まないで、育てていこ。
最後までお読みくださり、ありがとうございました。
あなたの、ますますの幸せを
お祈りしています!
※
noteブログもやっています。こちらとはちょっと色合いの違う記事もアップしています。