小松辰雄 | 「はじめての出来事」

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今年は久々に日米野球が開催されて、とても楽しかったです。
地元、新湊高校出身の西野投手も活躍してくれて良かったです。
皆さんは、長い日米野球の歴史で記憶に残る対決や選手はありますか?
今では動画で昔の日米野球の一部が見れて、思い出が蘇ります。


私の記憶に残る投手の一人に中日に在籍した小松辰雄投手がいます。
本日は当時球界で1、2位の球速を誇った小松投手の1981年の日米野球での動画です。



今見ても、小松投手の速球は伸びていますね。
148Kmぐらいですが伸びは凄いですね。

私は、小松投手には特別な思い入れがあります。
私が子供の頃、地元の新湊高校の野球部が、当時では珍しかった、大型の本格派、村上投手を
擁して県内では、ほぼ無敵でした。
当時は一県一代表校ではなく、石川県代表の高校と富山県の代表校が戦い、勝った方が甲子園
に出場できましたが、その時の石川県の代表校が、小松投手擁する星稜高校だったのです。

村上投手、小松投手2人とも2年でしたが、荒削りでしたが村上投手の方が球速は勝るように
見えましたが、結果は星稜高校が5ー2だったかな?で勝利しました。

しかし甲子園に出場した小松投手の球はもの凄く速く、小松投手の投手の投打に渡る大活躍
で当時無名だった星稜高校がベスト4迄勝ち上りました。

翌年、小松投手、村上投手二人共3年となり、またも代表校同志、対戦しました。
村上投手もコールドゲーム参考記録ながら完全試合を名門高校相手にするなど
今年の新湊高校なら、勝てるるのではないかと、地元は大盛り上りでしたが村上
投手は4安打?ぐらいに抑えながら四死球10と荒れまくり、新湊高校の方は10安打?ぐらい
放ちながら、またも5-2で敗れました。

小松投手はその後ドラフト1位で中日に入団して、快速球を武器に大活躍しました、新湊高校
の野球狂の父は、テレビで小松投手が投げていると、「こいつさえいなければ・・・クソ~」とよく冗談で話されていました。(いつまで言うとんのや・笑)

新湊高校もその後、何度か甲子園に出場していますが、負けるたびに父は「村上の時にどうしても甲子園行かんとあかんだがや!」などとよく言っていました。(まだ言うか~・笑)

村上投手は卒業後、社会人野球の名門だった日本生命に行ったのですが、ある日、読売新聞
を読んでいると大きな見出しで「大波乱、優勝候補、日本生命1回戦負け」と大きく掲載され
「新人、村上投手を先発させ四死球連発」と書かれておりました。
それを読んだ父は、「四球連発、村上の18番また出たか」と笑っておりました。

小松投手といえば、実は星稜高校ではなく、私の地元の高校に入りかったそうですが、
その高校が県立高校だったので、他県の生徒は受け入れるわけにはいかず、実現しなかった
そうです。

小松投手が引退セレモニーで「私にはもう、力は残っておりません」と叫んだ言葉が
数々の引退セレモニーの中で私の一番感激した言葉です。

今回はかなりローカルな話となり(´Д`;)ヾ ドウモスミマセン