吉本の「言語にとって美とは何か」は、結局、言語の価値は「自己表出」であって、言語の美は「構造」にある、としか言っていない。あれだけの言葉が費やしてあっても結局書いてあることは、それだけであって、文学で大事なものは意味の連鎖ではない、記号ではない、となる。
が、しかし。
文学とは作用に二元論的に単純にわけて語れるものであろうか、という素朴な疑問を持つことは必要である。吉本が、プロレタリア文学に愛想を尽かして、はじめた、この言語構造論だが、4年間かけて、必死に読んだ私の感想は、吉本がプロレタリア文学に感じたそれ、と同じである。つまり「そこから学び取るものが何もない」であり、「そこにすべてをかけていたので落胆が大きい」である。
吉本と私の違うとこらは、だから、そこで、自分なりの言語論を書こうだとかいう気にはならないことである。吉本は文筆で食っているから、何だか理論めかしいことを書いて、学生という顧客を獲得しなければならなかった。
「共同幻想論」であっても、結局言っていることは、自己幻想、対幻想、共同幻想の三つの位相があるということだけであって、実際には遠野物語も、古事記もどうでもいいのだ。理論的には。
しかし、遠野物語や古事記の話が、「共同幻想論」に出てこなければ多くの読者を獲得することはなかったろう。要は吉本の読書量に学生は驚嘆して、読みふけった、だけなのだ。理論は結局どうでもいい。文学の手引書として、読んだのだ。
しかし、問題は、ここにある。吉本の文学手引きは果たして正当であろうか。言語美は、言語構造論であるとともに、結局は太宰文学の礼賛でしかない面がある。いや、太宰を礼賛するために書かれた節さえある。途中で出てくる漱石も、三島も、お膳立てである。
文学の価値は、構造だけに依らないし、記号にも美はある。伊藤和夫が、言語は、絵画よりも音楽に近い、と言っていたが、こういう二元論を私は好まない。二人がすぐれていた点は、商魂のたくましさであろう。
もう少しましな本を読んでおくべきだったと反省する。学生は下手に文学や哲学に手出しするよりは、真面目に教科書やら、資格勉強やらをやったほうがいいと思う。実にそうすべきだ。