「ありあまるほどの、幸せを」 276 | 空に揺蕩う 十時(如月 皐)のブログ

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「アシェル、起きてください」

 フワリと、何かに身体を抱き上げられる。けれどそれだけだ。地面から身体は離れたけれど、母はますます遠ざかって、僅かも距離が縮まらない。

「お母さま、まって、待ってくださいッ」

 クシャリと泣きそうに顔を歪める。待ってと手を伸ばしたいのに、その手すら包み込まれて伸ばすこともできない。思うままにいかない身体のすべてに叫びだしそうなほどの癇癪を覚える。腹立たしくて、煩わしくて、アシェルは子供のように手足を暴れさせ身を捩るのに、どうしてかその身を包み込む何かはわずかも緩むことなくアシェルを開放してはくれなかった。

「アシェル。大丈夫ですよ」

 どこからか声が聞こえる。だが、何が大丈夫だというのか。まったく意味がわからない。

 身体が動かないのだ。

 母がそこにいるのに、追いつくことさえできないッッ!

「アシェル」

 母ではない声が囁き、唇に何かが触れた。トロリと甘いモノが流れ込み、アシェルは無意識にコクリと飲み込む。

『アシェル、一緒に行きましょう?』

 悲しそうに母が瞼を伏せ、アシェルに手を伸ばした。

「お母さッッ――んんッ」

 母を呼ぶ声さえ何かに塞がれて言葉にならない。

『アシェ――』

 母の声が遠くなる。名を呼ばれているはずなのに、それさえも聞こえなくなる。

 息を奪うほどに唇を弄られて、思わず強く瞼を閉じた。眦からボロボロと涙が溢れて止まらない。

 何も聞こえず、何も見えない。無の世界にアシェルは身を横たえた。