「ありあまるほどの、幸せを」 273 | 空に揺蕩う 十時(如月 皐)のブログ

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(――ッッ!?)

 小さな女の子が飛び出していた。柔らかな茶色の髪をリボンで結び、水色のドレスを纏った女の子。

(フィアナッ!)

 何かを雨から庇うよう羽織っていたケープで覆い胸元で抱いているせいか、〈フィアナ〉は道の真ん中に飛び出して初めて、馬車が異常な速度で近づいていることに気づいたようだ。すぐに走って避ければ良いのだが、〈フィアナ〉は予想していなかったそれに立ち止まり、大きく目を見開いて固まったままピクリとも動かない。このままでは、馬車に轢かれてしまう。

〝水色のドレスを着て、ラージェンと踊るの!〟

 叫んだ自分を疑問に思うことも、考えるだけの余裕もなかった。

 フィアナがあそこにいる。

 フィアナが轢かれてしまうッ!

 鉛のような足の重みも忘れ、アシェルは駆けだした。ガラガラと車輪の鳴る音と、制御不能になっているのだろう馬の嘶きが耳にこだます。

 

 それは一瞬の出来事だった。

 

 水色のドレスを突き飛ばした手の感触と、身体が飛ばされた衝撃。足が地にめり込み、視界は真っ赤に染まった。

 誰かの叫び声が聞こえる。金切り声と、泣きじゃくる声。バチャバチャと馬蹄が地面を踏みしめているのだろう雨土の音。それらすべてが遠ざかっていく。

 

「アシェル殿ッ!」

 

 誰かが呼んだような気がしたが、もうそれを確かめるだけの気力もない。

 真っ赤に染まった視界が、だんだんと黒く塗りつぶされていく。

 幼い泣き声が耳に響いて、アシェルは笑みを作ることもできず吐息を零した。

 大丈夫、泣かないで。

 大丈夫。もう、大丈夫だから。

 何も無いよ。怖いものなんて、何もない。

 大丈夫だから。

 泣かないで。ね? 小さなお姫様。

 伸ばした手が誰かに握られる。けれどそれさえもわからずに、アシェルの意識は深淵に呑まれた。