田中角栄が私にこう言ったことがある。

「頂上を極めるために、いちばん大事なことは何だと思うか」

「むろん、味方を作ることです」

「それはちがう。無理をして味方を作ろうと思えば、どうしても狩を作ることになる。相手に愛想笑いをする。腰を引いてしまう。揉み手をする。すり足になる。そうしてできた味方は頼りにできるのか。できない。無理して作った味方は、いったん、世の中の風向きが変われば、アッという間に逃げ出していく。そうしたシロモノがほとんどだ。だから無理をして味方を作るな。

敵を減らすことだ。自分に好意を寄せてくれる人たちを気長に増やしていくしかない。その中からしだいに味方ができる。そのためには、他人、とくに目下の人をかわいがることだ。誰にも長所がある。それを引き出すことだ。いばるな、どなるな、言えば分かる。手のひらを返すような仕打ちをするな。いつでも平らに人と接することだ」



『人には馬鹿にされていろ』

人の口に戸は立てられない。人間は三人寄れば、そこにいない人の悪口を言う。バカにする。欠席裁判をする。あるいは、仲間内みんなで集まって酒の肴にする。とかく、そういう具合になりがちだ。

弱い人間の最大の楽しみは、他人の悪口を言い合うことだ。上司の悪口、あの社長、部長、課長、ぶっ叩いてやる。あいつは偉そうなことを言ってるけれども、薄皮一枚ひんむけば、こんなことだ。そんなこともふくめて、欠席裁判をすることが世間にはとても多い。それは人間の本性の一つだ。

私がここで思うのは、人にバカにされてもいちいちカッカするな――ということだ。相手だって、こっちをぶち殺してやる、社会的に葬ってやるというやつを除けば、心底、ひきずりおろすために悪口を言ってるわけではない。楽しみ半分だ。それにいちいち目くじらを立てていたのでは胃を壊す。
欠席裁判にされているのではないかと思ったら、一日中、悪口を言いそうなやつの側にへばりついていなければならない。そんなことは無駄なことである。



田中角栄師匠が、私に言ったことがある。

「商売も政治も結局、同じことだ。大勢の人に集まってもらわなければ、話にならない。大勢の人の気持ち、お心を頂戴できなければ、吾が思いを遂げることはできない。自分だけがオレは東京帝国大学出身だ、東大だ、オレは一番賢いんだ、ほかのやつはバカだ、オレのところに寄ってこないのは、そいつらがバカだからだ。これを銀座4丁目で空に向かって叫んだところで、どうなるか。カラスが飛んできて、その開けた口の中に糞をたれて、アホウ、アホウと言って飛んでいくだけのことだ」



人は誰でも世にスタートしたときは、右も左もろくに分からない。だが、風雪の歳月を経て経験を積み、百石もの汗を流した甲斐あって才能も花開き、時流にも恵まれて、世間が丁重に迎えるということになると、人間は普通、鼻が下を向かないで上を向くようになる。目線が高くなる。そうなれば本人の行く手に黄色の信号がチカチカ点滅する。いばりくさって世の中は渡れない。そのうち誰も相手にしなくなる。



若い者は粗相する。だが、それは当たり前だ。経験が浅いのだから、何かにつけて失敗する。しかし、経験が浅い者の失敗に、いちいち目くじらを立てることはない。自分だってそれ以上に失敗の連続だったじゃないか。叱る時には、誰もいないところでガッチリやったらいい。どんなささやかなことでも、褒めるときには、大勢のいる前でドンと褒めてやることだ。そうすれば若者は奮起する。いつか必ず知遇に応えてくれる。



田中角栄という人は、人の顔を見れば、

「おい、メシは食ったか」

と言っていた。口癖である。

表現は乱暴だが、相手は春風のように聞いた。

「メシは食ったか」

初心忘れず、この言葉は角栄の体験から発した。すきっ腹のつらさ、切なさを知っていたからである。

「おい、角さん、おれが昼飯も食えないほど貧乏してると思ってバカにするのか」

こう言って怒った人は一人もいない。よほどのひねくれものでもなければ、「メシまで心配してくれるのか、うれしい。ありがたいことだ」――そう思う。