先日、ふと入った古本屋で興味深い本と出会えた。



航空機事故や医療についての著作が多く、ゲーム脳について議論の引きがねとなる発言をされ、最近では福島原発の事故調査、検証委員のメンバーにも名前を連ねるノンフィクション作家の柳田邦男さん。


その著するところの「マッハの恐怖」や「零戦燃ゆ」は読んではいたが、こんなに強く好奇心を擽ってくる本に会えるとは。




そのタイトルは「犠牲(サクリファイス)~わが息子・脳死の11日」



神経症から自死を選択した、自身のご子息の臨死について書かれているのだが、意識も薄くなっている死に臨んだ若者を、どうすれば彼の尊厳を保ち、その意思に沿う形で最期を迎えさせることができるのか、という点に重点を置いて書かれている。



ちょうど神経症や精神障害、自死、臓器移植、それに緩和ケアなどに強く興味を持っていることもあり、引きずりこまれるように一気に読んで行った。




日にちを置かずに、今度は目的を持って古書店に。




選んだ本は、死の医学への日記




前述の、いくつかの点の中でも、医療者の患者に対しての対応、ガン告知についての以前と現在の変化を含む、医療事情の変化、死にあたっての親族の対応など、主に終末期にかかわることにスタンスを置いて書かれている。



重篤な状態ではあるが、自分の病が不治のものだと知らされていない患者に、やはり我が子の病状について説明されていない、年老いた母。


いよいよ最期が近づいた時に母が娘に言ったこと…


言い残すことがあるでしょ。今のうちにはっきりと言っておきなさい


「人として最期を迎えるには、なすべき手順をきちんと踏むのですよと、親がわが子に教えているといった雰囲気だった。それは、明治の女ならではの外柔内剛の精神力に起因するものなのか…」


「これは大事な死の教育、死への準備教育だ。在宅だからこそ、こんな瞬間が生まれるんだ」







入院した当初余命三ヶ月と言われたことを考えると、義兄は十一ヶ月の闘病生活のうち、四ヶ月半を自宅で過ごすことができたし、その間のクオリティ・オブ・ライフは、従来のすい臓ガンの末期患者では考えられなかったほど高かった。



医学の専門分科が進んだあまり、医師でさえ自分の専門分野以外については疎くなっている昨今である。患者、家族が自分で情報を集めないと、死ぬに死ねない時代になっているといえようか。








また、究極のクオリティ・オブ・ライフの章には、つぎのような件がある。







ガンの苦痛が日々変化するというのは、ガン専門医の赤井院長でさえ、自らガン患者になってはじめて気づいたことであろう。


厩舎につながれていた愛馬は、半年ぶりに来てくれた飼い主にたてがみをなでられて、うれしそうな眼をした。赤井院長は《乗りたい》という思いに突き動かされ、手綱をひいて愛馬を馬場に連れ出すと、乗馬クラブの人の助けを借りて、ひょいと馬の背に跨った。乗れたのだ。

〈私のたったひとつの、そして最大の願いがほんの短い時間であったが実現したのである。〉










生きとし生けるもの、いずれは最期をむかえる。


その最期をどれだけその人らしく迎えさせることができるのか。


本当に真剣に考えさせてもらえた。


また、ことは人間のみならず、様々な生き物にもあてはめられるのでは、と、気づかされたようにも思えてならない。