第五話「50年前の怒鳴り声と、散らばる大人の殻」
前回のあらすじ
天王寺のマンションで意識を失った俺が目を覚ますと、そこは一寸先も見えない完全な暗闇だった。
聞こえてきたのは、12歳の頃のハスキーな声。そして周囲には、同じく小学生の姿に戻った「6年3組」40人のクラスメイトたちがいた。
完全に開け放たれた扉の向こう、眩い逆光のなかに、すっくと立つ一人の大きな「人影」のシルエットがあった。
驚きと感動でどよめく俺たちを割るようにして、呆れたような大声が響く。
「おい、お前ら! こんなところで何をしとるんや!」
間違いない。大喜多先生だ。
白髪交じりの老人でも、幽霊でもない。
ジャージの袖をたくし上げ、チョークの粉をズボンにつけた、あの頃のままの、元気で恐ろしい熱血先生がそこに立っていた。
「5時間目のチャイムが鳴ったのに誰もおらんから慌てたぞ。……お前ら、卒業前に俺をおどかそうと計画したな? 6年3組全員で示し合わせて、ほんまに、しょーもないことしおってからに!」
「俺をビビらせるには、50年早いわ! 体育館のほうからガサゴソ声が聞こえたから、やっぱりここやと踏んだんや」
大喜多先生は一歩、用具室の中に踏み込んできた。
「おい、木暮! 宮本! 片山! お前らが主犯格か? さっさと出てこい! 授業とっくに始まっとるぞ!!」
雷のような怒声が響き渡る。
名前を呼ばれた片山三郎が、12歳の身体をビクッと震わせた。ブルース・リーに心酔して「アチョー!」と叫んでいた、あのやんちゃ坊主だ。
中身は62歳の大人だが、先生の声一つで一瞬にしてあの頃の「小学生」に引き戻される。
だが、その怒声を聞いた瞬間、俺の胸の奥から熱いものがこみ上げてきた。
会社の契約終了が決まり、家族が出て行き、何のために目を覚ませばいいのか分からなくなっていた俺の身体が、ドクドクと力強く脈打ち始めたんだ。
「大喜多……先生……」
俺が涙を滲ませたその時、すぐ後ろで片島が声を漏らした。
「健一……。見てみ、あそこ……」
片山が指したのは、開け放たれたドアの向こう、光に満ちた体育館のフロアだった。
そこには、俺たちが直前まで身につけていた「2026年の現実」が転がっていた。
スーツ、ネクタイ、老眼鏡、ポケットからこぼれ落ちた名刺や診察券……。さっきまで62歳として生きていた証拠が、脱皮した殻のように散らばっている。
「おい、何をしとる。早く出んか!」
怪訝そうに振り返る先生の目には、その『大人の遺留品』が映っていないようだった。
この奇跡は、俺たちの記憶だけを12歳の肉体に乗せ、大人の抜け殻をそこに置き去りにしたんだ。
契約満了を迎える木暮部長でも、孤独な男でもない。
俺は今、1976年の、大喜多学級の木暮健一に戻っている。
「ほら、片山も宮本も、ぐずぐずすな! 走るぞ!」
俺は涙を袖で拭うと、隣にいる仲間の背中をドンと叩いた。
50年前のあのまばゆい2月の光の中へ、俺たちは一斉に、力強く走り出した――。