📖 前回のあらすじ
『走れメロス』の練習で、三郎の演技は誰もが息を飲む「異次元」の気迫を放っていた。病床での死線、そしてオカンと家族への想いを乗せた命がけの叫びに、大喜多先生もタバコを落としそうになり、健一や木の役の竜二も圧倒される。斬られ役の大部屋役者ではなく本物の主役となった三郎を中心に、クラスは一致団結して本番を迎えるのだった――。
【第五十三話】 コロッケの匂いと、決戦前夜の誓い
学習発表会を明日に控えた、三月中旬の夜。
夕方の団地の台所には、パチパチと小気味よい音を立ててコロッケが揚がる音が響いていた。昭和の家庭の、あの懐かしいラードの匂いだ。
「ほら、三郎! つまみ食いせんと、早う箸と皿並べなさい!」
オカンが油の乗った菜箸を器用に扱いながら、いつものツッパリ気味の口調で怒鳴る。その顔には、湯気と油の熱気でほんのり赤みがさしていた。
「分かってるって、オカン。今やるがな」
三郎は12歳の軽い身体を弾ませるようにして、狭い台所へと向かった。
現代の2026年では、末期がんで入院し、ただ死を待つだけの衰え切った身体だった自分が、今はコロッケの匂いを「美味そう」と感じ、自分の足でスタスタと歩いている。その奇跡に、彼は毎日、涙が出そうになるのをこらえていた。
ふと横を見ると、まだ小学生の幼い弟が、居間の畳の上で「にぃちゃん、明日劇なんやろ? メロスなんやろ?」と目を輝かせて見上げている。その奥では、親父が無愛想に新聞を広げ、キリンのラガービールをコップに注いでいた。
三郎は胸の奥がツンと痛んだ。
(この光景も、あと数週間……。卒業式の日には、オカンは弟を連れて、タクシーでここを出ていくことになる)
未来を知っているからこそ、この普通の、どこにでもある「家族の夕食前のひととき」が、狂おしいほどに愛おしかった。
「オカン」
三郎は皿を並べながら、できるだけ何気ない風を装って声をかけた。
「ん? なんや、三郎」
「明日さ、学校で学習発表会あんねん。体育館で劇やるんや」
「知っとるわ、プリント見た。あんたメロスやるんやろ? セリフ噛んで恥かきなや」
オカンはフンと鼻で笑いながら、揚げたてのコロッケを大皿に盛った。ぶっきらぼうな物言いだったが、その声はどこか嬉しそうだった。
三郎はオカンの横顔をじっと見つめた。
(オカン。俺な、大人になってから役者になったんやで。売れへん大部屋役者でな、テレビの端っこに一瞬映るくらいしかできへんかったけど……。それでも、日本のどこかで暮らしてるオカンが、いつかテレビの俺を見て『あ、あの子元気にしてるんやな』って気づいてくれるかもしれないと思って、62歳まで、ずーっと泥水すすりながら役者続けてきたんやで)
もちろん、そんな未来の告白は口にできない。
言えばすべてが壊れてしまう。
「……オカン、明日、絶対に見に来てや」
三郎は、12歳の少年の声に、62年分の魂のすべてを込めて言った。
「当たり前やろ。あんたのドジな姿、しっかり目に焼き付けたるわ」
オカンがそう言って笑ったその時、奥の居間から「おい、ビールもう1本」と親父の不機嫌そうな声が響いた。オカンは一瞬、フッと表情を曇らせ、黙って冷蔵庫へと向かった。
冷え切った夫婦の空気。家族の崩壊のカウントダウンは、もう確実に始まっている。
三郎は、居間のちゃぶ台の前に座り、小さな、だけどエネルギーに満ちた12歳の拳を、ズボンの上でギュッと握りしめた。
(演技の神様、もしいるなら俺に力を貸してくれ。大部屋役者で終わった俺やけど、明日の舞台だけは、世界一の主役になってみせる。オカンの心を動かして、絶対にこの家族をバラバラにさせへん……!)
三郎は決戦の明日を見据えていた――。
本日も最後までご覧いただき、本当にありがとうございました!
お母さんの揚げたてコロッケの匂い、キリンラガービール、そして冷やすと固まる「ハウスプリン」……昭和の団地の夕食風景が、ありありと目に浮かびますね。そして、三郎が大部屋役者を続けてきた「本当の理由」に、胸が締め付けられるような感動がありました。
それではまた次回お楽しみに
サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ……!