📖 前回のあらすじ
学習発表会の演目が『走れメロス』に決定!「客席のオカンに本気の演技を見せたい」と熱望する三郎(中身は62歳の大部屋役者)が主役に立候補し、見事に決定する。セリヌンティウス役に指名された健一も三郎の熱意に応えることを決意。暴君役の太陽も見守る中、大人たちの魂を秘めた劇の準備が動き出したのだった――。
【第四十八話】
昭和五十一年二月下旬。放課後の教室に、懐かしいあの匂いが立ち込めていた。
「ガリガリガリ……」
ヤスリの付いた鉄板の上で、鉄筆がロウ紙を削る独特の音が響く。学級委員長の松田裕子が真剣な表情で『走れメロス』の台本を刻んでいた。
「よし、原紙できたわよ。刷るわよー」
裕子がローラーに黒インクをつけ、木枠の版をパタンと伏せてコロコロと転がす。
一枚一枚、手繰り寄せるように刷り上がっていくのは、あの少しざらついた茶色っぽい「わら半紙」だ。
出来上がった台本を手に取った俺(健一)は、黒く汚れた指先を見つめながら、思わずフッと溜め息をついた。
「はぁ……令和ならパソコンで文字打って、印刷ボタンを一回ポチッと押せば綺麗な台本が1秒で刷り上がるのにな。修正だってバックスペースキーひとつで消せるし、ガリ版みたいに鉄筆で手を痛めたり、原紙が破れて最初からやり直し……なんて不便さとは無縁だったよな」
健一のぼやきを聞いて、ローラーを握っていた竜二も大きく頷き、遠い目をして呟いた。
「ほんまそれや……! コンビニのコピー機が一台だけでもここに欲しいわ! 原稿セットして枚数押すだけで、両面印刷まで勝手にやってくれるんやぞ? わら半紙に黒インクで手を真っ黒にして、一枚ずつ手で捲るなんて……令和の文明のありがたみが身に染みるわぁ」
「これ! 竜二くん、健一くん! 喋ってないで手も動かしなさい!」
学級委員長の裕子にピシッと怒られ、二人は「へーい……」と大人しくローラーを転がし直すのだった。
そんなわら半紙の台本を、プロの目で吟味するようにパラパラとめくっている女子がいた。クラスメイトの浅野弘子だ。
「裕子ちゃん、ここト書き(人物の動きの説明)を少し書き直していい? メロスとセリヌンティウスの友情の葛藤をもっとドラマチックに演出したいの」
弘子が赤鉛筆を走らせ、見事な構成でセリフのテンポを修正していく。実は彼女、令和の時代では数々のベストセラーを手掛けた「元・大手出版社のベテラン雑誌編集者」なのだ。
「弘子ちゃん、なんか演出家みたいでカッコいいー!」と裕子たちが歓声をあげる中、弘子はニヤリと笑った。
「ふふっ、子供向けの劇だからって手は抜かないわよ。観客の心を鷲掴みにする台本にしてあげる!」
一方、体育館のステージ裏では、舞台背景(大道具)の制作が始まっていた。
「おいおい、シラクスの街並みにしては線が細いなぁ。遠くの客席から見たらボヤけちゃうぞ」
そう言って腕まくりをしたのは、普段は大人しい性格の木村琢磨だ。
琢磨は教室の棚から「ギターペイント」の水彩絵の具を引っ張り出すと、赤いチューブからダイナミックに絵の具をバケツへ絞り出した。
「いいか? 舞台背景ってのはな、近くで見ると大雑把に見えるくらい太い線と濃い影を入れるのがコツなんだ!」
琢磨は太い筆を握ると、大きな模造紙へ迷いのないタッチでギリシャの古代都市を描き出していく。
実は彼、若い頃に映画館の看板屋で修行していた男なのだ。……ただし、彼が主に描かされていたのは成人向けの『エロ映画』の看板であることは、ここでは固く伏せられている。
「琢磨、お前なんでそんな絵の具の使い方上手いねん!? プロみたいやん!」
三郎が驚いて声をかけると、琢磨はドヤ顔で鼻をこすりながらうそぶいた。
「フッ……まあな。若い頃、看板屋のバイトで『ターミネーター』とか『ロッキー』とか『ダイ・ハード』のド派手な映画看板を描いてたからな!」
「「「えーっ!? ターミネーターにダイ・ハード!? すっげえーっ!!」」」
周囲の男子たちが「琢磨カッコいいー!」と目を輝かせて大歓声をあげる。(※実際は日活ロマンポルノの看板ばかり描かされていた男である)。
「編集に看板画家に、大部屋役者……。令和の大人たちの『本気のプロ技』が、この小さな学芸会に集結しとるな」
三郎はわら半紙の台本をぎゅっと握りしめ、夕日に染まる体育館を見上げた。
「みんながこれだけの舞台を作ってくれたんや。俺もメロスとして、客席のオカンを感動させて泣かせてみせるぜ……!」
かっこよく締めくくったその時、後ろから内田がひょっこり顔を出し、三郎の耳元でボソッと呟いた。
「……三郎、ズボンのチャック全開やで」
「ひえっ!?」
三郎は青ざめた顔で股間に目を落とすと、大慌てで「社会の窓」のチャックをガバッと引き上げた。
「お前っ……! 人が感動に浸っとるのに、耳打ちで教えろやい!!」
真っ赤になって怒鳴る三郎だったが、すでにしっかり聞こえていたクラスのみんなは大爆笑!
「「「あははははーっ!!」」」
「三郎、本番でもチャック開けて走るなよー!」
「メロス、ズボン落ちるぞー!」
夕暮れの体育館に、仲間たちの楽しそうな笑い声が大きく響き渡るのだった。
ガリ版のインクの匂いと、ギターペイントの鮮やかな色彩。昭和五十一年の放課後、大人の魂(と小さな嘘とチャックの閉め忘れ)を宿した子供たちの、本格的な劇の練習が始まろうとしていた――。
本日も最後までご覧いただき、本当にありがとうございました!
ガリ版刷りのわら半紙台本に、ギターペイントの絵の具……読者のみなさんも思わず手に取った感触や匂いが蘇ってきたのではないでしょうか?
それでは、また次回の『六年三組のタイムカプセル』でお会いしましょう。
サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ……!
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