私には映画を観るうえで参考にしている本がいくつかあります。そのうちの一冊が、NHKが放送している『世界サブカルチャー史 欲望の系譜』シリーズの一つを書籍化した『世界サブカルチャー史 欲望の系譜 アメリカ70~90s「超大国」の憂鬱』(祥伝社)です。

 この本が「ジェネレーションX(以後、X世代)」を描いた優れた映画と高く評価しているのが『リアリティ・バイツ』。今回のブログは、この映画を取り上げます。

 

<X世代>

 『欲望の系譜』によりますと、「X世代」はダグラス・クープランドの著書『ジェネレーションXー加速された文化のための物語たち』(1991)に由来し、元々は1960年代半ばから80年代初頭にかけて生まれたアメリカ人を指すそうです。

 この世代はベトナム戦争の失敗やヒッピー運動の衰退の後を見ながら育ったため、改革によって社会が良くなるといった夢を見ることはなく、一方で、情報技術の発展により、音楽や映画などを浴びるように摂取しながら育った世代でもあるということです。

 

<『リアリティ・バイツ Reality Bites(1994) ※ネタバレ注意

 この「X世代」の4人の若者を群像劇風に描いた映画が『リアリティ・バイツ』です。

 女性のリレイナ、ヴィッキー、男性のトロイ、サミーは、もともと同じ大学に通っていて、卒業後、ひょんなことから一緒に暮らすようになります。映画はリレイナウィノナ・ライダー Winona Ryder 1971-)トロイイーサン・ホーク Ethan Hawke 1970-)を中心に展開していきます。

 リレイナは大学卒業後、テレビ局の契約社員としてトーク・ショーのアシスタント・ディレクターを務めますが、キャスターとそりが合わず、結局、クビになってしまいます。新しい就職口を探しますが、X世代は超就職氷河期にぶつかっているため、仕事探しに苦労します。

 トロイはIQは極めて高いのですが恵まれない生い立ちもあって物事をシニカルに眺めがちで、せっかく入った大学も中退しバンド活動を続けています。

 ヴィッキーはエイズに感染したのではないかと心配し、サミーは自分がゲイであることを両親に打ち明けられないことに悩み、4人それぞれが葛藤を抱えながら20代の前半を生きています。

 リレイナとトロイは互いに惹かれ合っていますが、たまたま知り合ったテレビ局のプロデューサーとリレイナがつきあったこともあって、そうすんなりとは事が運びません。

 しかし、リレイナは仲間を主人公に制作したドキュメンタリーがプロデューサーの勤めるテレビ局によって面白おかしく作り替えられたことに傷つき、トロイはトロイで病気がちだった父親が亡くなったことに傷つき、映画はそんな二人が互いの傷をいやしながら恋人としてやり直すところで終わります。

 

 とまぁ、ざっとこんな感じですが、この映画は、たぶん全体に通底する「X世代」特有の空気感を感じてもらうのが大切だと思います。その意味では、映画の冒頭にリレイナが大学の卒業式で行ったスピーチにそれがよくあらわれていると思うので、最後にそのスピーチを紹介します。

今の若者は、たかがBMWを買うために週80時間も働いたりしません。60年代に反体制やカルチャー革命を謳った人々は今や無心に毎朝ジョギングする始末。では、現在の私たちはどう生きるべきか。受け継いだ重荷をどうするべきか。卒業生の皆さん、答えはいたって簡単です。その答えは・・・答えは・・・わかりません!!

 

 ちなみに「リアリティ・バイツ」は、直訳すれば「現実が噛む」と言うことになりますが、「現実は厳しい」といった意味で使われるそうです。

 

ベン・スティラー監督(Ben Stiller 1965-)

1994年のアメリカ映画

 

 

<「X世代」への思い>

 ということで、この映画は「X世代」と呼ばれる世代の若者を描いていますが、wikipediaによりますと、ほかに○○世代と呼ばれるのは1946年から53年ごろに生まれた「ベビーブーム世代」(日本ではこのうち1947~49年に生まれの人たちを「団塊の世代」と呼ぶ)、1980年代から1990年代に生まれた「Y世代(「ミレニアル世代」とも呼ぶ)などがあります。

 私は1957年生まれですのでどの世代にも属さず、言ってみれば狭間の世代の一員になると思います。

 その私から見た『リアリティ・バイツ』の感想ですが、「面白かったけど共感はできなかった」といったところです。

 かつて私が働いていた放送局の部下や後輩は、まさに「X世代」がほとんどでした。「頑張るという言葉は嫌いだ」と、いかにもこの世代らしいことをはっきり言う部下もいて、映画を観ながら彼らの顔が浮かんで面白かったです。

 逆に共感できなかったのは、登場人物を見ているうちに「自分探しもわからないわけではないけれど、モラトリアム期間である大学生活が終わったんだから、とりあえず覚悟を決めて今いる場所で最善を尽くせば」と思ったからでした。

 と、ここまで書いてきて気がついたのは、どの世代にも属さないものの、どうも私は日本で言うところの「団塊の世代」に感覚が近いのかもしれないな、ということです。「体育の先生みたい」と言われたことも何回かありますし、BMWを買うために30年近くにわたってあくせく働くという、たぶんリレイナから見れば信じられないような人生を送ってきたことでもありますし・・・(笑)。

 

<世代で語るのではなく>

 『リアリティ・バイツ』は、確かにX世代の若者の気分といったものがよく伝わって来て、今、50歳前後のX世代の人たちの考え方のベースに何があるのかを知るうえで参考になる映画だと思います。でも、その一方でこうも思います。人を知るには、やはりその人と向き合わなければいけないと。 

 私の好きな村上春樹の短編小説『ハナレイ・ベイ』の中に次のような一節があります。

 「おばさん、ひょっとしてダンカイでしょう?」と長身が言った。

 「なに、ダンカイって?」

 「団塊の世代」

 「なんの世代でもない。私は私として生きているだけ。簡単にひとくくりにしないでほしいな」

 生きているうちに知らず知らず自分が属している世代特有の空気感といったものの影響を受けるのは仕方のないことです。でも、十把一絡げにされるのではなく、本当はこの女性のように「私は私だ」と思って生きていくのが、格好いいし、責任のある生き方だと思います。

 それは他者に対しても言えることで、ある人がどういう人であるかを知る、別の言い方をすればジェネレーションギャップを超えるには、その人が属している世代のことを理解しつつ、相手ととことん向き合っていくしかないと思います。

 自分らしさを追求し、先入観を持たずに他者と向き合っていく。

 「X世代」という一つの世代の若者を描いた『リアリティ・バイツ』を観て、私はあらためてそんなことを感じています。

 

 

 最後まで読んでいただき、ありがとうございました。