関東大震災の5日後、千葉県福田村で行商人たちが朝鮮人と間違われて村人たちに虐殺された事件を描いた『福田村事件』。朝鮮人差別などいくつかの重いテーマを持った映画で、差別に対する考えなどを問われているような気がして、今回はブログに書くのは見送ろうと思いました。でも、こうした映画だからこそ、せめて自分がどう感じたのかをまとめておく必要があるのではないかと思い、パソコンに向かうことにしました。

 

<福田村事件>

 関東大震災から5日後の1923(大正12)年9月6日、千葉県福田村(現在の野田市)で、香川県からやってきた薬の行商人9人が朝鮮人と間違われて村人たちに虐殺されました。

 事件の背景には、ひごろ差別を受けている朝鮮人が関東大震災の混乱に乗じて日本人に復讐を企てるのではないかという恐怖心がありました。この恐怖心は、警察が「朝鮮人に気をつけよ」などとデマをまき散らしたことでさらに拡大され、福田村でも村人たちが自警団を組織して朝鮮人の襲撃に備えていました。

 そこを15人の行商人が通りかかり、方言を聞き取ることができなかった自警団の人たちが「言葉がおかしい」「朝鮮人ではないか」としだいに興奮していき、村長の制止も聞かず9人を次々と殺害しました。

 この事件では自警団の8人が逮捕され、このうち7人が懲役3年から10年の実刑判決を言い渡されました。受刑者の中には裁判の中で「郷土を朝鮮人から守った俺は憂国の志士であり、国が自警団を作れと命令し、その結果、誤って殺したのだ」と主張する者もいて、受刑者全員が、判決の確定から2年5か月後、昭和天皇の即位による恩赦で釈放されました。

 

 映画は、関東大震災に至るまでの日々と大震災が起きて行商人たちが虐殺されるまでの5日間を行商人、自警団、村長、新聞記者など複数の登場人物の立場から描いています。それぞれの思いが交錯して、やがて福田村事件という惨劇が引き起こされます。

 

2023年

森 達也監督(1956‐)

 

 

<森 達也監督

 ニューズウィーク日本版は、「森 達也の私的映画論」というコラムを各号で連載しています。10月31日号のタイトルは「『いちご白書』を観た日が僕のターニングポイント」で、高校入学前の春休み、当時、新潟に住んでいた森監督が友だちに誘われて市内の名画座に『いちご白書 The Strawberry Statement(1970)を観に行った時のことが書かれています。

 『いちご白書』は、アメリカの名門、コロンビア大学で起きた学生運動を題材にしています。主人公の学生が恋人の女子大生と一緒に社会の矛盾や不合理を変革する運動に取り組みますが、最後は機動隊に蹴散らされ踏みにじられてしまいます。

 森監督は、この映画を観たことがきっかけとなって『卒業 The Graduate (1967)や『真夜中のカーボーイ Midnight Cowboy(1969)それに『明日に向って撃て! Butch Cassidy and the Sundance Kid (1969)などアメリカン・ニューシネマの作品を観続け、その経験が後の映画作りの原点になったということです。

 以前、ブログに書いたことがありますが、私も森監督言うところの「反体制で無軌道な主人公が権力や体制に反逆するが、最後は必ず負ける」アメリカン・ニューシネマの作品が好きで、記事を読んで監督に強いシンパシーを感じました。

 森監督は、これまでオウム真理教や新聞記者を扱ったドキュメンタリー作品を数多く手がけてきて、劇映画は今回の『福田村事件』が初めということです。アメリカン・ニューシネマで育った映画人である森監督が、これからもドキュメンタリーだけでなく『福田村事件』のような骨太な社会派ドラマを制作し、観る者を刺激し続けてくれることを願っています。

 

                                   森 達也監督 

 

<いくつかの重いテーマ>

 この映画にはいくつかの重いテーマがあります。具体的には、「朝鮮人差別」「被差別部落出身者への差別」「集団ヒステリー」「ひ弱な知識人」そして「マスコミの在り方」です。

 このうち「被差別部落出身者への差別」については、9人が虐殺された薬の行商人たちは香川県の被差別部落の出身でしたが、そのことを隠しながら行商を続けたため、彼らの出自が殺害の原因になることはありませんでした。だた、仲間8人とともに殺害された青年が、被差別部落出身者として差別を受けながら生きてきて最後は朝鮮人と間違われて殺される自分の人生を呪って、「俺はこななとこで殺されるんか」と死の間際につぶやいた言葉が胸に刺さりました。

 一方で、福田村事件の直接的な引き金になったのが「朝鮮人差別」と「集団ヒステリー」です。「朝鮮人差別」の感情は、1910年の日韓併合によって朝鮮半島が日本の植民地になって以来、現在に至るまで日本人の精神にしみのようにこびりついています。また「集団ヒステリー」のうち「集団」については、私は民主主義の長い歴史を持つ西欧の人たちに比べると日本人は自らが責任を持って物事を決めるという意識が希薄で、結果、集団で行動しがちであり、「ヒステリー」については、自分自身のことを考えても、熱しやすく冷めやすい国民だとかねてから思ってきました。 

 福田村事件は、そうした日本人の特性が最悪な形で現れたケースだと思いますが、私は専門家ではないのでこの点について触れるのはこのぐらいにして、次に「ひ弱な知識人」と「マスコミの在り方」について考えをまとめてみることにします。

 

<「ひ弱な知識人」「マスコミの在り方」>

 日露戦争(1904-05)終結後、国際的緊張関係は緩和に向かい、日本国内でも自由と権利の獲得、抑圧からの解放が声高に叫ばれるようになりました。所謂、大正デモクラシーです。自由や民主主義を尊ぶ知識人も増え、この映画でも、村長の田向と教師を辞めて妻と一緒に朝鮮半島から故郷の福田村に引き上げて来た澤田、まさに大正デモクラシーを象徴するような人物でした。

 田向村長は、行商人たちを朝鮮人と思い込んだ自警団をなだめ、ことが大きくならないように説得に努めます。しかし、結局は彼らの暴発をおさえることはできず、事件が起きてしまいます。

 また澤田は、朝鮮半島にいた時、結果的に朝鮮人虐殺に協力してしまったことに責任を感じて教師を辞め無気力な生活を送っていましたが、行商人たちを救おうとする妻の姿を見て、自分も自警団の説得にあたります。しかし、村長同様、その努力が報われることはありませんでした。

 事件を防げなかった村長は、新聞記者の取材に対して「待てと言ったんだ。私は待てと」と自らを弁護した後、「俺たちはずっとこの村で生きてかなきゃなんねえんだ。だから、書かないでくれ」と懇願します。

 一方、映画はラスト近くで、澤田が妻と一緒に着飾って渡し船に乗るシーンを描き、二人が死に向かって旅立とうとしているのではないかという印象を観客に与えます。

 このように、田向も澤田もまったく何もしなかったわけではありませんが、結局は事件を防ぐことができず、最後は責任逃れとも取られかねないようなことを言ったりやったりします。森監督は、二人を通して知識人の良心とひ弱さを描こうとしたのではないかと思っています。

 この二人と対照的な描き方をしているのが、新聞記者の恩田 楓です。映画によると当時の新聞は犯人が特定されない事件を伝える原稿の最後に、「いずれは社会主義者か鮮人か、はたまた不逞の輩の仕業か」と書いていたようですが、彼女は部長に命じられてもそう書くことを拒否します。また、福田村事件が起きた後、村長から「書かないでくれ」と依頼されたのに対して、「書きます。新聞が・・・・私が、朝鮮人の暴動をデマだって書かなかったから、朝鮮人がいっぱい殺されたんです。この人たちまで。だから、せめて書かないと。書いて、償わないと」と拒否します。

 森監督は恩田の姿勢に、あるべきマスコミの姿を託したかったんだろうと思います。と同時に、記者の仕事をしていた私は、自分が彼女の立場だったらどうしていただろうかと思わざるを得ませんでした。

 

<観終わって>

 テーマが多く、しかもそれぞれが重いだけに、映画を観ながら絶えず「お前だったらどうしていた」と問われているような気がして、観終わった後、かなりぐったりしてしまいました。映画を観て初めての経験かも知れません。

 このぐったり感が、ブログに取り上げるのを生理的に避けようとさせたのだと思います。でも、今は書いて良かったと思っています。それは何よりも、私なりに映画のテーマを整理し、その一つ一つについて拙いなりにも自分の考えをまとめることができたからです。しかし、あくまでもまとめただけで、自分自身の中にあるかもしれない差別意識や未成熟な個の意識のあぶり出しまでは、まだできていません。その作業はこれからも続けなければなりませんし、その結果、おかしな点が見つかったら、残りの人生をかけて改めていかなければならないと思っています。

 

 

 最後まで読んでいただき、ありがとうございました。