日航ジャンボ機が群馬県の御巣鷹山に墜落し、乗員乗客520人が犠牲になった事故からあす8月12日で38年になります。当時、私は記者になって4年目。初任地の山口から埼玉県の浦和に異動したばかりでした。埼玉県は群馬県と隣接しています。私もまた応援取材に行き、忘れることのできない夏を過ごしました。

 今回のブログは、当時、地元紙の記者としてこの事故を取材した作家の横山秀夫さん原作の映画、『クライマーズ・ハイ』をご紹介します。

 

<日航ジャンボ機墜落事故>

 1985年8月12日午後6時過ぎ、大阪の伊丹空港行きの日航ジャンボ機が羽田空港を飛び立ち、およそ1時間後に群馬県上野村の御巣鷹山に墜落しました。乗員乗客524人のうち520人が死亡し、単独の航空機事故としては世界最大の犠牲者を出しました。

 この飛行機は、7年前に伊丹空港に着陸した際に誤って機体の後部を滑走路に接触させる事故を起こしています。墜落の原因は、「しりもち事故」と呼ばれるこの事故の後にボーイング社が行った圧力隔壁の修理が不適切だったためとされています。

 

<『クライマーズ・ハイ』>

 群馬県の地元紙の上毛新聞の記者として事故を取材した作家の横山秀夫さんが2003年に出版した同名の小説を原作に製作され、2008年に公開されました。

 主人公は北関東新聞の遊軍記者、悠木和雅堤 真一 1964-)で、悠木は地元の群馬県で起きた日航ジャンボ機墜落事故で全権デスクを命じられます。北関東新聞は全国紙に比べて人、物、金が手薄です。さらに、かつて群馬県で起きた連合赤軍事件や大久保 清事件の取材の栄光にいまだに浸っているように見える幹部たちと悠木以下、中堅・若手記者との確執があります。そうしたあおりを受けて、ようやくの思いで御巣鷹山の墜落現場にたどり着いた県警キャップの佐山堺雅人 1973-)が書いた事故現場の雑感原稿を朝刊に載せることができず、悠木は全権デスクとして苦しい立場に追い込まれます。

 事故の原因についての情報を取った記者が男性ではなく女性だったり、最後に悠木がニュージーランドに住む息子夫婦を訪ねて行ったりと、映画は原作と異なる点がいくつかあります。しかし、未曽有の航空機事故を前に、取材指揮や紙面づくりに最善を尽くそうとする悠木たちの誇りや苦悩を描いたという点では、原作と全く変わりがありません。

 ちなみに「クライマーズ・ハイ」とは、登山時に興奮状態が極限まで達し、恐怖感が麻痺してしまう状態を指す言葉です。原作を書いた横山さんは、大事故の取材に立ち向かった悠木や佐山の張りつめた思いもこの言葉に託しています。

 

 

原田眞人監督

2008年公開

 

※連合赤軍事件 1971年、72年にかけて連合赤軍が群馬、長野両県内で引き起こした二つの重大事件、山岳ベース事

        件、あさま山荘事件を指す呼称。

※大久保 清事件 1976年に死刑となった群馬県出身の大久保 清が1971年3月2日から逮捕される同年5月14日  

         までの間に、同県内で約150人の女性に声をかけ、10数人と関係を持ち、内8名を殺害した事件

 

<幻の特ダネ>

 この映画の中で、玉置という女性記者尾野真千子 1981-)が事故原因の情報を取って来たものの、ギリギリのところで悠木が記事にすることを見送るシーンがあります。悠木は、経験の浅い玉置にかわって県警キャップの佐山に旅館を夜回り取材させ、事故調査委員長にネタをぶつけますが、確証をつかむこができなかったため記事を見送ります。しかし、同じ内容の記事が翌朝、全国紙に載り、結果として特ダネを抜かれた形になってしまいました。

 このシーンを観て思ったのは、自分が悠木の立場だったらどうしただろうかということです。夜回りを終えた佐山は悠木にこう言います。「(警)察官ならイエスです。顔なじみの察官ならイエスと言えるんですが、(事故調査委員長の)藤浪とは初対面です。事故調という特殊な役職もあります。どんな時にどんな反応を見せるのか不安が残ります。」

 つまり、事故調査委員長は、佐山が確認を求めた事故原因についてはっきりとは肯定しなかったものの否定もしなかったわけです。私も記者やデスクとしてこうした経験は何度かあり、ネタが大きくなればなるほど胃が痛くなる思いをしながら原稿を出すかどうか悩んだものです。

 結論から言うと、私が悠木の立場だったら記事にしていたと思います。理由は事故調査委員長が否定しなかったということもあるのですが、映画の中でちらっと見えた新聞の見出しが「事故原因 ○○が有力」となっていたからです。これが「事故原因 ○○と断定」ならさすがに記事にすることはできないでしょうが、「有力」であったら事故調査委員長が否定しなかったことを根拠に原稿を出すことができたと思うからです。

 一方で、読者にしてみれば「断定」でも「有力」でも受ける印象はさほど変わらないはずです。その意味から言うと、結果的に他紙に特ダネを取られた形になってしまいましたが、記事にすることを見送った悠木の判断を責めることはできないと思います。

 事故原因の情報を最初に取った玉置が、翌日の朝、悠木の自宅にやってきて、一面に特ダネの載った全国紙を見せながら、「悠木さんの判断間違ってなかった。そう思っています。それだけ言いたくて走ってきました」と伝えます。本来ならば特ダネを潰されたと怒ってもおかしくない彼女がそう言ってくれたことは、悠木にとってせめてもの救いになったのではないかと思います。

 

<墜落事故と私>

 事故が起きた1985年8月12日は、初任地の山口から埼玉県の浦和に異動した直後でした。ちょうどその日は、浦和での初めての泊まり勤務を終えた日で、知り合いの女性とデートするため夕方、都心に向かいました。たぶん夜の7時だったと思いますが、待ち合わせ場所の駅の改札で女性と会い、店に向かって歩いていると突然ポケットベルが鳴りました。当時は携帯電話はなかったので電話ボックスから支局に電話すると、「日航のジャンボが墜落した。もしかしたら現場は埼玉かも知れない。すぐに支局にあがるように」とデスクから指示を受けました。「まいったな」と思いながら、女性と別れてタクシーで支局に向かったのですが、もしあの夜、デートが成立していたら、彼女とはその後どうなっていただろうかと、今でも時々思うことがあります(笑)。

 デスクの言葉にあった「もしかしたら現場は埼玉かも知れない」というのは、本当のことでした。御巣鷹山のある群馬県の上野村は、埼玉県と長野県と隣り合っていて、事故が夜に起きたことなかなか現場を特定することができず、初めのうちは埼玉に落ちたという説も流れていました。  

 だいぶ経ってからの話ですが、事故当時、埼玉県警察本部の捜査一課の次席だった警察官に「事故の発生を知って、まず何をした?」と聞いた時、「500人分の棺の手配を始めた」という答えが返ってきました。やはり警察も、もしかしたら埼玉かも知れない、ということで色々な準備を進めていたわけです。

 

 

 結局、日航ジャンボ機の墜落現場は群馬県でしたが、現場が比較的近いということもあって浦和支局からも次々に応援取材に出かけました。私も、たしか8月の後半になって遺体安置場が置かれた藤岡市に向かいました。市の体育館が安置場になり、その体育館の一室が臨時の記者クラブになっていました。主な仕事は、遺体の身元が判明したらそれを原稿にすること、そして遺族を取材することでした。

 これは日航機の事故に限りませんが、遺族取材はつらいものです。悲嘆に暮れている遺族に追い打ちをかけるように色々な質問をする。中には怒り出した遺族もいたかもしれません。記者という仕事を呪いながら、一方で事故の悲惨さを伝えるためには、やはり遺族の声が必要と自分に言い聞かせ、なんとか取材を続けました。

 藤岡市には、我々メディアの人間だけでなく日本航空の社員もたくさん来ていました。炎天下の中、黒い喪服を着た彼らは甲斐甲斐しく遺族の世話にあたっていました。それから何年かたって映画『沈まぬ太陽』(2009)で、主人公の恩地 元渡辺 謙 1959-)がジャンボ機墜落事故の遺族の世話をするシーンを観た時、藤岡市で見た日航の社員たちのことを思い出しました。

 もちろん一番つらかったのは遺族です。でもあの夏は、私にとっても忘れることのできない夏になり、日航の社員にとってもつらく厳しい夏だったに違いありません。

 

<乗客の遺書>

 ご存じの方も多いと思いますが、あの事故では、乗客の何人かが墜落直前の飛行機の中で遺書を書いていました。映画にも他紙に抜かれた事故原因を翌日の一面で追いかけたことに社長が「恥の上塗り」と激怒し、そんな社長に「退職願」を提出した悠木に佐山が遺書を読み上げるシーンがあります。佐山は慰留の言葉の代わりに「一面トップでやってくださいよ」と悠木に声をかけます。

 日航ジャンボ機墜落事故からあす8月12日で38年。当時、独身だった私も、結婚して二人の子どもの父親となりました。その分、遺書に書かれた無念の思いがより胸に迫って来ます。

 最後に佐山が読み上げた遺書を原文のまま紹介し、ブログを終えたいと思います。

マリコ 津慶 知代子 どうか仲良くがんばって ママをたすけて下さい 

パパは本当に残念だ きっと助かるまい 

原因は分らない 今5分たった もう飛行機には乗りたくない どうか神様たすけて下さい 

きのうみんなと食事をしたのは最后とは 

何か機内で爆発したような形で煙が出て 降下しだした どこえどうなるのか 

津慶しっかりたんだぞ ママ こんな事になるとは残念だ さようなら 子供達の事をよろしくたのむ 

今6時半だ 飛行機はまわりながら急速に降下中だ 

本当に今迄は幸せな人生だったと感謝している 

 

          (原文ママ) 河口博次さん(当時52歳)の遺書

 

 

 520人の御霊の安らかならんことを。

 

 

 

 最後まで読んでいただき、ありがとうございました。