勤め人生活を終え、11月から週二回、埼玉県の川口市でニュース映像のアーカイブス化の仕事を手伝っています。川口にはかつて鋳物工場が建ち並び、そこで暮らす人たちの哀歓を描いた映画『キューポラのある街 1962』は、今も街の代名詞になっています。

 吉永小百合が貧しさに負けず、あすを信じて生きる少女ジュンを演じた『キューポラのある街』。そこには、戦後日本の青春が描かれています。

 

                          JR川口駅前にあるキューポラの模型

                                    (キューポラは、鋳物工場の溶解炉で

                                    工場の屋根には煙突部分が突き出ている)

 

<あらすじ> ※ネタバレ注意 

 終戦から10年余りが過ぎた昭和30年代。埼玉県川口市の中学3年生のジュン吉永小百合1945-)は、鋳物職人の父親と母親、それに二人の弟と生まれたばかりの赤ん坊の6人で長屋暮らしをしている。ジュンは学校の成績も良く、高校への進学を希望していた。しかし、職人気質の父親は仕事でうまくいかないことがあると不満のはけ口を酒に求め、家計はいつも火の車だった。

 ちょうどそのころ、在日朝鮮人の北朝鮮への帰還事業が進められていて、川口でもジュンや弟の友だちが親と一緒に北朝鮮に行くことになった。

 貧しさゆえ全日制高校への進学をあきらめるしかなくなったジュンは、自暴自棄になる。しかし、学びは学校の中だけにあるのではないと励ます中学校の担任や見学に行った工場で働く女子工員たちの前向きな姿を見て、昼間働き、夜、定時制高校に通うことに決め、新しい一歩を踏み出すことになった。

 

浦山桐郎監督(1930-1985)

1962年公開

 

 

<吉永小百合 1945-

 説明は不要だと思いますが、日本を代表する名女優の一人です。

 数多くの映画やテレビドラマに出演していますが、彼女が主役を演じた作品の中で特に私が好きなのは、今回取り上げた『キューポラのある街』と、母親の胎内にいる時に広島で被爆した温泉芸者の夢千代を演じたテレビ『夢千代日記 1981-1985と映画の『夢千代日記 1985です。

 私が持つ吉永小百合のイメージ、「ひたむき」とか「はかなさ」とか「薄幸」は、すべて二つの作品から来ています。

 

 

<浦山桐郎監督 1930-1985

  浦山監督は『キューポラのある街』で監督デビューし、映画『夢千代日記』を監督した後、体調を崩して亡くなりました。吉永小百合を世に送り出し、そして生涯最後になった作品も主演は彼女でした。

 浦山監督の作品で思い出深い映画は、『青春の門 1975です。私はこの映画を高校二年生から三年生になる春休みに新宿の映画館で観ました。つまり私も青春の真っただ中で、五木寛之の原作と合わせて夢中になったものでした。

 この『青春の門』で、主人公、信介田中 健 1951-)の義理の母親、タエを演じたのが吉永小百合です。タエの夫、重蔵仲代達也 1937-)は筑豊の炭鉱事故で朝鮮人炭鉱夫たちを救うため自ら犠牲になります。タエは、夫の忘れ形見である信介を女手一つで育て、そして胸を病んで死んでいきます。そんなタエを演じた彼女の演技は、高校生だった私に強い印象を残しました。

 

 

 この『青春の門』で、主人公の信介が通う高校の担任を演じたのは加藤 武(1929-2015)です。加藤は『キューポラのある街』でもジュンの担任を演じています。浦山監督にとって先生役と言えば加藤ということなのかと思ってちょっと調べてみたら、実際に中学校で英語の教師をしていたことがわかりました。その時の経験もあって、心のあたたかい生徒思いの先生役がよく似合うのかなと思いました。

 

<川口という街>

 冒頭書きましたように、私は11月から週二回だけですが埼玉県の川口市に通っています。以前、ある放送局の浦和支局に勤務していたこともあって、これまでも川口にはたびたび行ったことがありますが、定期的に通うようになったのは初めてです。

 JR川口駅は赤羽駅の北隣ですが、電車に乗っていると、都県境を流れる荒川を越えたとたんに街の雰囲気ががらりと変わることがわかります。赤羽側は高い建物が建ち並び人も密集していますが、荒川を越えると人も建物も数が減り、突然、空が開けてきます。山口や浦和など地方勤務が長かった私は地方都市での生活がけっこう気に入っています。電車が荒川を越えて川口に入ると、いつも心がホッとして故郷に帰って来たような気持ちになります。

 その川口の鋳物ですが、江戸時代から農閑期を利用して造られるようになり、明治に入ると国の富国強兵政策の恩恵を受けて街を代表する産業として発展しました。太平洋戦争の前後を通して川口の鋳物は需要が高く、1964年の東京オリンピックで国立競技場に置かれた聖火台は川口で製造されました。

 しかし1970年代のオイルショック以降、鋳物工場は激減しました。かつて工場があった跡地には、商業施設やマンションが建ち並び、川口はかつての『キューポラのある街』から東京のベッドタウンに様変わりしています。

 

<在日朝鮮人の帰還事業>

 Wikipediaによりますと、1950年代から1984年にかけて行われた在日朝鮮人とその家族による北朝鮮への集団的な永住帰国あるいは移住のことを指します。主として1959年から67年にかけて行われ、朝鮮籍を持つ50万人のうち、日本人妻およそ1800人を含む9万3000人が北朝鮮に渡ったということです。

 この事業を考案したのは当時の金 日成主席で、金主席は帰還者を通して日本から資金や技術を導入し国家建設に役立てようと考えたということです。

 『キューポラのある街』で、ジュンは、貧しさから抜け出せず高校進学もままならない自らと比較して、自分たちの力で新しい国を造ろうと北朝鮮に向かう同級生にある種のうらやましさを感じます。

 北朝鮮には、日本から渡った人たちが今も相当数生きていると思います。その人たちのその後の人生はどうだったのか。今の北朝鮮を見ると、とても複雑な気持ちになります。

 

<戦後日本の青春>

 この映画は昭和30年代の川口が舞台です。「もはや戦後ではない」と経済白書がうたったのが昭和31年ですから、その直後にあたります。確かに昭和25年から28年まで続いた朝鮮戦争に伴う特需で戦後日本の復興は進み、それは鋳物が産業の中心だった川口でも同じでした。

 しかしその一方で、親方-職人という古いしきたりの中で生きてきた者の中には時代の変化についていけない者が多く、貧しさから抜け出すことは容易ではありませんでした。また、川口には在日朝鮮人も多く、北朝鮮への帰還は彼らにとって大きな問題となりました。

 『キューポラのある街』はこうした問題を正面に見据えながら、中学3年生のジュンを通して新しい時代の到来を予感させます。多くの矛盾を抱えながら、それでも、きょうよりあすは良い日になると信じて、多くの人が一心に前を見つめて生きていこうとしたあのころは、ジュンだけでなく日本にとっても、戦後迎えた青春の季節だったに違いありません。

 

 

 最後まで読んでいただき、ありがとうございました。