前回のブログ『福島の被災地を訪ねて』で、福島第一原発の事故を描いた映画『太陽の蓋』を紹介しました。今回は『Fukushima 50』です。

 『太陽の蓋』が総理大臣官邸詰めの記者を主人公にしているのに対して、『Fukushima 50』は、所長をはじめとした福島第一原発の作業員の危機との闘いを描いています。この映画、パニック映画やヒューマンドラマとしては面白いのですが、伝えるべきことを伝えていないもどかしさを感じてしまいます。

 

<福島第一原発の事故>

 2011年3月11日に発生した東日本大震災で、福島県の太平洋側にある大熊町と双葉町にまたがる福島第一原子力発電所は高さ14~15メートルの大津波に襲われ壊滅的な被害を受けました。

 

 

 事故の経緯を簡単に振り返ります。

 

▼3月11日午後2時46分  巨大地震発生 

 福島第一原発には1号機から6号機まであって、この日、動いていたのは1号機から3号機でした。地震の揺れを感知して原子炉は緊急停止しました。

 外部から電気が来なくなったため、非常用のディーゼル発電機が電気を供給し始めます。ここまでは地震発生の際の対応マニュアル通りでした。

 

▼3月11日午後3時半過ぎ 大津波襲来

 津波は高さ10メートルの敷地まで襲い、1号機のタービン建屋、原子炉建屋に流れ込みます。タービン建屋に設置された非常用発電機や電気の配電盤が海水につかって使えなくなり、すべての電源が失われました。事態が急速に悪化します。

 

▼3月11日午後11時50分ころ ベント

 1号機の原子炉を収めている格納容器の圧力が高くなっていることが明らかになります。爆発を防ぐため中の空気を抜くベントを行うことになり、翌12日の午後2時ころまで作業が続きます。大量の放射性物質も放出されてしまいます。

 

▼3月12日午後3時36分 1号機 水素爆発

 ベントを行ったにもかかわらず、1号機で水素爆発が起きます。溶けた核燃料のカバーなどから発生した大量の水素が建物の上部にたまっていたのです。

 爆発によって、原子炉建屋の最上階が骨組だけ残して吹き飛びました。

 

▼3月14日午前11時1分 3号機 水素爆発

 今度は3号機で水素爆発が起きます。

 1号機に続いて3号機でも格納容器の圧力が増したためベントを行っていましたが、爆発を防ぐことはできませんでした。

 その規模は1号機よりも大きく、周囲で電源の復旧作業をしていた人たちにがれきが降り注ぎ、多くのけが人が出ました。

 

▼3月14日午後1時ころ 2号機 大爆発のおそれ

 2号機の冷却装置が停止します。

 1号機と3号機で実施したベントを2号機でも行おうとしましたがうまくいかず、格納容器の圧力が上昇します。大爆発が起きて放射性物質が広い範囲に拡散する恐れが急速に高まりました。

 

▼3月15日午前6時10分 4号機 水素爆発

 4号機が水蒸気爆発。

 当時、4号機は、定期検査中でしたが、3号機から配管を通じて水素が流れ込み、爆発が起きました。

 福島第一原発の吉田昌郎所長は、当初、この爆発に伴う衝撃音が最も心配していた2号機から出たものと考え、必要最小限の人数を残して、およそ650人を福島第二原発に避難させました。

 

▼3月15日午前11時25分 2号機 爆発回避

 2号機の格納容器の圧力が大気圧に近い値まで急落。大爆発の危機が去りました。

 何らかの原因で容器に大きな損傷が生じ、その結果、中の圧力が低下して大爆発を免れたものと見られています。

 

 一方、これは事故の後になってわかったことですが、一号機では電気がなくても機能する冷却装置が地震の影響で動かなくなっていました。このため核燃料が高温になり、原子炉の中の水位が下がって夜にはむき出しの状態になりました。3月11日の深夜に炉心溶融・メルトダウンが起きたものと見られています。

 また2号機と3号機でもメルトダウンが起き、三つの原子炉が同時にメルトダウンを起こす世界最悪レベルの事故となりました。原子力施設事故の深刻度を示す「国際原子力自己評価尺度(INES)」で、福島第一原発の事故は1986年のチェルノブイリ原発事故同様、最も深刻な事故にあたるレベル7と評価されています。

 

<『Fukushima 50』>

 この映画は、吉田昌郎所長渡辺 謙 1959-)と1・2号機の伊崎利夫当直長佐藤浩市 1960-)をはじめとした福島第一原発の作業員の3月11日の地震発生から15日の2号機の爆発回避までの4日間にわたる危機との闘いを中心に、未曽有の原子力事故に翻弄される国、電力会社、住民の姿を描いています。 

 海外メディアは、吉田所長の指示で650人が福島第二原発に避難した後も第一原発に残った50人を「Fukushima 50」と呼び、それが映画のタイトルになりました。

 

 

若松 節朗監督

最優秀監督賞最優秀助演男優賞(渡辺 謙)など

日本アカデミー賞の最優秀賞を6部門で受賞

 

2020年の日本映画

 

<映画に感じるもどかしさ>

 タイトルからもわかるようにこの映画は、吉田所長はじめ福島第一原発の暴走を何とか食い止めようとした50人をヒーローとして描いています。確かに現場の状況を考慮しようとしない国や電力会社本社からの理不尽な要求に耐えながら、最悪の事態を防ごうと命がけで戦った現場の50人は、ヒーローだったと思います。

 しかし、映画はそれを描くことのみに終始しているきらいがあり、さらに後半になって唐突に自衛隊や米軍もヒーローの仲間に加えたこともあって、どうしても「それはそうかもしれないけど、もっとほかに伝えるべきことがあるだろう」と、もどかしさを感じてしまいました。

 では「伝えるべきこと」とは、いったい何だったのでしょうか?

 映画の最後の方で、吉田所長が危機の4日間をともに戦った伊崎当直長にあてた手紙が紹介されます。この中で吉田所長は「自然の力をなめていたんだ。10メートル以上の津波はこないとずっと思い込んでいた。確かな根拠もなく1F(福島第一原発)が出来てから40年以上も自然を支配したつもりになっていた。慢心だ」と深く反省しています。

 この「10メートル以上の津波はこないとずっと思いこんでいた」ことが仕方のないことだったのかどうか、それこそがまさに「伝えるべきこと」だったと思います。

 

<津波の予測可能性>

 東京電力の株主が旧経営陣5人を相手取って起こした株主代表訴訟の判決が、先月13日に東京地方裁判所で言い渡されました。判決は、旧経営陣が東日本大震災の3年前に津波評価の担当部署から福島第一原発に高さ15,7メートルの津波が押し寄せる可能性があるという報告を受けていながら対策に着手しなかったと指摘し、1人を除く4人に対して計13兆円余の賠償命令を言い渡しました。

 一方で、映画が公開される前年の2019年には、業務上過失致死傷の罪に問われていた旧経営陣に無罪を言い渡す刑事裁判の判決がありました。判決は、旧経営陣が、担当部署から高さ15,7メートルの津波の可能性について報告を受けていたものの、それをもって「巨大津波の発生を予測できる可能性があったとは認められない」としています。

 もしかしたら、『Fukushima 50』はこの無罪判決をベースに製作されたのかも知れません。あるいは、製作陣は、あくまでも危機に立ち向かう人間のヒューマンドラマやパニック映画としての面白さを強調するエンターテインメント作品と位置づけ、津波の予測可能性については、サラッとしか触れるつもりがなかったのかも知れません。

 しかし、福島第一原発の事故によってもたらされた結果があまりにも重大なだけに、私は、それを引き起こした原因、言い換えれば「10メートル以上の津波はこないとずっと思いこんでいた」ことが仕方のないことだったのかどうかについて触れずに、吉田所長以下、電力会社の50人、それに自衛隊や米軍をヒーローとして描くことに終始した『Fukushima50』に、伝えるべきことを伝えていないもどかしさを感じてしまうのです。

 

<被災地を訪ね、2本の映画を観て>

 東日本大震災から11年が経過しました。正直言って、2011年3月11日とそれに続く出来事は、私にとって過去のものとなりつつありました。そんな矢先に母校の高校で教師をしている友人から誘われて、後輩たちと一緒に福島県の双葉町と浪江町を訪れ、それに相前後して福島第一原発の事故を描いた『太陽の蓋』と『Fukushima50』を観ました。

 もどかしさはあるにせよ、二本の映画は、発生当時に受けた衝撃をよみがえらせるのに十分でした。また、住民がまだ帰れない被災地を歩いて、東日本大震災がけっして終わっていないことを実感しました。

 おりしも、漁業関係者が反対する中、福島第一原発のタンクに保管されている放射性物質汚染水を海に放出するための海底トンネルの工事がまもなく始まろうとしています。

 東日本大震災による福島第一原発の事故は、今もなお、我々一人一人に原子力発電所の是非について真剣に議論することを求め、さらに被災地の復興という重い課題にどう向き合っていくのか、問い続けているのだと思います。

 

 

 最後まで読んでいただき、ありがとうございました。