あのジョージ・ルーカス(George Lucas 1944-)が監督した『アメリカン・グラフィティ American Graffiti 1973』。青春映画の古典ともいえるこの作品を、実は私、まだ観ていませんでした。「一年の計は元旦にあり」ということで、元旦ではないんですが3日の日にPrime Videoで観ました。
高校卒業直後の一夜の出来事を描いたこの映画。観ているうちに、私もあのころのことを思い出しました。
<タイトルの意味>
英語の「graffiti」は、「落書き」という意味です。なのでタイトルの「アメリカン・グラフィティ」は、「アメリカの落書き」ということになります。だからと言って、出演者たちが落書きをする物語ではありません。若者たちが引き起こすドタバタを筋道を立てずに、いわば落書きのように描いた映画ということで、ジョージ・ルーカス監督(George Lucas 1944-)が「アメリカン・グラフィティ」というタイトルにしたわけです。
ということで、この映画にはストーリーらしいストーリーはありません。1962年のある日、たぶんカリフォルニア州と思われる郊外の街で、高校を卒業したばかりのカート(リチャード・ドレイファス Richard Dreyfuss 1947-)とスティーヴ(ロン・ハワード Ron Howard 1954-)を中心とした若者たちが一晩のうちに起こす騒ぎを、オールディーズの曲にのせて描いています。
縦軸のようなものはあります。それはカートとスティーヴの大学進学をめぐる悩みです。二人は、それぞれ東部の大学への進学が決まっていましたが、カートは本当にこのまま大学に進学すべきかどうか迷っていました。それが、街でたまたま見かけた美女と電話では話せたもののそれ以上には進展しそうにないことが分かると、さっさと進学を決めてしまいます。
一方、スティーヴはカートの妹ローリーと交際していましたが、今後はお互いに束縛し合うことはやめようと言って、大学に進学しようとします。しかし、一晩のドタバタの結果、ローリーを愛していることがわかると、前言を撤回して、大学には行かずに街に残ることにします。
ジョージ・ルーカス監督は、自分の経験をベースにこの映画を作ったと言います。日本では高校卒業前後の若者が車を乗り回したり、あけっぴろげに男女交際したりすることはまれでしょうけど、アメリカの若者にとってはごくごく普通のことなのですね。だからこそ、この映画を観た多くのアメリカ人が若かりしころを思い出して郷愁にひたり、やがて『アメリカン・グラフィティ』の世界は、彼らにとって心の故郷になったのだと思います。
1973年のアメリカ映画
ジョージ・ルーカス監督( George Lucas 1944-)
<ジョージ・ルーカス監督 George Lucas 1944->
『スター・ウォーズ』シリーズや『インディ・ジョーンズ』シリーズで知られる、アメリカを代表する映画人の一人です。プロデューサーの方が性にあっているみたいで、監督した作品は『アメリカン・グラフィティ』など数本にとどまっています。そのあたりのことをルーカスは、次のように語っています。
監督はきらいだよ。毎日違う相手と15ラウンド勝負をやるような苦しみだ。構想通りの結果にはならないのだから、毎日が、幻滅の連続でね。
『アメリカン・ニュー・シネマの息子たち』より(ロッキング・オン社)
そんなルーカスが、なぜ『アメリカン・グラフィティ』の監督をやったかというと、もともとはフランシス・フォードコッポラ(Francis Ford Coppola 1939-)のもとで『THX1138』というSF映画を制作することになっていましたが、コッポラが『ゴッドファーザー The Godfather 1972』の制作に入ってしまったため、資金面も含めて自分で何とかしなければならなくなりました。どうしようかと考えた時に、もともと車とか自分の身近にあったものが出て来るロック&ロール映画に興味を持っていたので、『アメリカン・グラフィティ』を作ることを思いついたということです。
ちなみにコッポラは、ルーカスが南カリフォルニア大学の学生としてワーナー社で研修を受けた時に彼の面倒を見ました。『アメリカン・グラフィティ』にもプロデューサーとして参加しています。
ルーカスを語るうえで忘れてはならないもう一人の映画人が、スティーヴン・スピルバーグ(Steven Spielberg 1946-)です。二人は古くからの盟友で、1977年に一緒にハワイで休暇を取っていた時に『レイダース』の制作話で盛り上がったといいます。そして、ルーカスが原案と製作総指揮、スピルバーグが監督をして『レイダース/失われたアーク≪聖櫃≫ Raiders of the Lost Ark』が作られ、1981年に公開されました。
コッポラとルーカス、それにスピルバーグ。しっかりとつながっているんですね。
<リチャード・ドレイファス Richard Dreyfuss 1947->
リチャード・ドレイファスって、スピルバーグ監督の映画の常連ってイメージがありましたが(『ジョーズ Jaws 1975』『未知との遭遇 Close Encounters of the Third Kind 1977』『オールウェイズ Always 1989』)、ルーカス監督の作品にも出ていたんですね。
これは、ルーカス、スピルバーグ作品ではありませんが『グッバイガール The Goodbye Girl 1977』でアカデミー主演男優賞を受賞しました。一時、ドラッグ依存に陥り、精彩を欠いた時期がありましたが、その後、復活し、今も活動を続けています。
<ロン・ハワード Ron Howard 1954->
てっきり監督一筋と思っていましたが、両親ともに俳優だったため子供のころからテレビドラマや映画に出演していました。
『アメリカン・グラフィティ』に出演したのは、南カリフォルニア大学の映画学科在学中で、卒業後、映画監督の道を歩むようになります。
主な作品は、『アポロ13 Apollo13 1995』、『ビューティフル・マインド A Beautiful Mind 2001』、『ダ・ヴィンチ・コード The Da Vinci Code 2006』、『ヒルビリー・エレジー 郷愁の哀歌 Hillbilly Elegy 2020』などで、『ビューティフル・マインド』でアカデミー監督賞を受賞しています。
<ハリソン・フォード Harrison Ford 1942->
カートとスティーヴの高校の先輩にカー・レースを挑むボブを演じています。
俳優としてなかなか芽が出なかったため、一時、大工に転職しますが、その仕事を通じて知り合った映画プロデューサーの紹介を受けて『アメリカン・グラフィティ』に出演します。
そこでルーカスやコッポラの信頼を得て、彼らの作品に出演するようになり、ルーカスが監督した『スター・ウォーズ Star Wars 1977』のハン・ソロ船長役で人気を不動のものにしました。
<私の落書き>
高校時代の私には、車やあけっぴろげな男女交際は縁遠い存在でした。でも、この映画に出て来る登場人物たちのドタバタぶり、とりわけ、これまでの生活に別れを告げて新しい生活を始めようとするカートとスティーヴの不安や戸惑いを観て、私もあのころのことを思い出しました。
ちょっとだけ、落書きさせてもらいますと・・・。
高校の卒業式があった1976年3月のある日のことです。式が終わって学校のグラウンドでクラスの仲間と野球かソフトボールをやった後、喫茶店で時間をつぶして何人かと居酒屋に繰り出しました。
1次会が終わり次に行ったのは、スナックだか喫茶店だか、とにかくジュークボックスが置いてある店でした。なんでそんなことを覚えているかというと、世の中の苦悩を一身に背負ったような深刻な顔をした大学生風の男の客が、プロコル・ハルムの「青い影」を繰り返しジュークボックスでかけていたのがとても印象に残ったからです。まさに青春ですね(笑)。
ちなみに私が通っていた高校は男女共学で、居酒屋までは女子もいたと記憶していますが、ジュークボックスの店には男しかいなかったような気がします。このあたりが、情けないことに『アメリカン・グラフィティ』とは全く違うんですね。
「青い影」を何度も聞かされているうちに、我々もしだいに苦悩の色が濃くなって悩みや苦しみを語り合おう、ということになったのか(笑)、とにかく河原に行って焚火を囲むことになりました。深夜の住宅街を小一時間かけて多摩川まで歩きました。
多摩川では、河原に落ちていた流木や紙くずで焚火をしました。何を語り合ったのかまったく覚えていませんが、そのうち小雨が降ってきたので、近くの小学校で雨宿りすることになりました。しばらくすると夜が白々と明けてきて、給食のパンを配達する小型トラックが小学校に到着しました。運転していた男性に事情を話したところ、その運転手、とても親切な人で、パンの入ったコンテナに乗せてくれることになりました。そして、最寄りの駅まで送ってもらい、そこで解散となったわけです。
と、これだけでしたらわざわざ皆さんに紹介するほどのこともないんですが、解散間際になって、ひと騒動ありました。何かというと、一緒にいた一人が、卒業証書が筒ごとないと騒ぎ始めたんです。それに対して誰かが(私だったかもしれません)、「暗かったので間違って焚火にくべちゃったかもしれない」と言ったものですから大変です。その男、「小学校の教師をやっている父親が卒業証書を見るのを楽しみにしている」と、半狂乱になりました。
何とかなだめなければいけないと、誰かが(これも私だったかもしれません)、「なくしたと学校に言えば再発行してくれるんじゃないか」と言ったんですが、焚火に卒業証書を注ぐ、ではなくて、火に油を注いだだけでした。「他人ごとだと思って、勝手なことを言うな」と、ますます興奮して手が付けられなくなりました。
3月とはいえ、朝はまだ寒く、雨も本降りになってきています。おかしいやら、気の毒に思うやら、とにかく私も同情はしたのですが、多摩川まで戻って一緒に探そうという元気はなく、そのまま家に帰った次第です。
とまぁ、『アメリカン・グラフィティ』に比べると何ともしまらない話で、我ながら情けなくなってきます。でも、こんなことを思い出したのも、この映画を観たからで、そこが『アメリカン・グラフィティ』の魅力なんだろうな、とあらためて思っています。
あっ、それと、卒業証書をなくした男ですが、しばらく経って会った時、「あの後、何人かに手伝ってもらって河川敷を探したら見つかった」と、嬉しそうに話していました。もちろん、「お前は冷たい奴だ」と、私を非難することは忘れませんでしたけど・・・(笑)。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。