父として
これは哲学の問いになるかわからないが、今日は父親の役割について考えた。
私には9ヶ月になる息子がいて、まだ手がかかるが、とても可愛らしい。彼がだんだん物心がついて、父親とはどういう人物かについて、理解をするだろう。
私が今考えているのは、私が彼の父親としてふさわしい人物かどうか、ダメじゃないか、という不安である。
いまだに、学生時代のモラトリアムの延長のように、何のために生きているのか、と問いを立てて、答えを見つけようとしない(つまり、実存的になりきってない)。
一方で、社会人として、世間で一般的に期待されるような、しっかりしたこの年齢の大人としての振る舞いも十分にできるとも思わないし、自信もない。
仕事も持っているが、子供が成人まで生活させていけるだけの、仕事のスキルを持って、自立できる、あるいは組織の中で力を発揮し続けれる、という自信も身に着けていないと卑下してしまう。
また、妻からも子育てを含めた、家庭の簡単でこまごまとしたことも役割として果たすことができず、怒鳴られたりして、自分が嫌になったりもする。
そう、将来が無限に広がっていた20代の頃とくらべて、劣等感の塊のようになってしまったのである。
ただし、それでも会社勤めとしての地位を維持できているので、このような、哲学と称した思索にふけったりもしているのかと思う。
現実逃避でブログを立てているというのは、たまたま読んでいただいている方も迷惑かもしれないが、逆に、生きる問いというのは、現実に満足していても、不満であっても、根源的であって、ダメといっても問うてしまうものではないかとも思うし、引き続き、書き続けたい。
いや、何がいいたいのかというと、息子が物心がつくまでに、見栄をはっていわゆる父親らしさを誇示したり、体裁を整えたり、演技したりしないで、自然な形で、いい影響を子供に与える父になりたいということだ。
かなり、筆が進んできたのだが、妻がパソコンを使わせろとプレッシャーをかけているので、今日はここまでにします。
それでは
病気になったことによる気付き
せっかく、勢いで始めたブログが2回書いたら、いきなり挫折してしまった。
何日経っただろうか? 5日だ。 そう、風邪をひいてしまったのだ。
先週の土日は仕事は休みだが、熱が体にこもり、体のふしぶしに鈍い痛みが
あり、ほとんど動けなかった。 月曜日に入ってからも、ちょっと元気が戻らない。
なので、今日も長くは書くつもりはないが、1つだけ、病気になったとき、人は生きるとは何か、ということを考えなおすと思う。以下は、私が卑近に思ったことだ。
①自分の体がいつも、いつまでもピンピンしていない、ということを再認識する。
突き詰めると死を意識する。「もし明日、この世にいなくなるなら、どうやって生きる理由につき哲学を続けて、総括できるのか? 結局、不毛な作業ではないか?」
②ある人はほとんど病気もせず、生き生きとして、人生に目標を立て、実行している人がいる。別の人は、自分の意思・精神力とは関係なく、病気と縁が少なくない人生を送り、そんな世の中のサクセスストーリのような不眠不休で仕事をして成功するなんていう人生はあり得ない。 なぜ、人はそれぞれ違う境遇をこの世で受けるのか? その意味は?
他もいろいろな、命題はあると思うが、①は、自分にとって回答のハードルが今高いところだ。 ②はいろいろな解釈があるはずだ。
まず、「生き生きとして、人生に目標をたてて」というのはいかにも、現代社会の中でテレビ・本・雑誌など様々な媒体が私たちに押し付けてくる価値観だ。
「誰が生き生きとしているのが人間の生きる目的と決めたんだ?」。「誰が目標、特に社会生活の役割を目標の達成を通じて実現することが人からの尊敬につながり、すなわち生きる目的だなんて決めたんだ?」
あるいは、「病は気からで、精神力・気力があれば克服できる」。
特に、私は、現代社会が「目標を立て、達成する人生」に重きを置いていて、無言のプレッシャーをかけてくることに漠然と不満を持っている。これはアメリカ的な影響がきっと大きいのではないかと思っている。
もちろん、逆説的に、じゃあ「人生の目的を立て、達成し、社会で敬意を払われ、
自分なりに生き甲斐を感じる、という人生の目的立てがなかったら、じゃあ毎日、だらだらと、、生活の糧を得るという最低の活動に従事し、かつ、自分自身の達成目的は立てず、、自分が信頼する家族、友人たちと楽しくすごす、あるいは、世の中を傍観者的に眺め、どういう形態であれ、社会で自分なりに役割を果たして認められ、自己満足を得る、という価値観として全く求めない。例えば、このような人の人生の目的な何?」、と問われると、今、この質問を書きながら自分に尋ねているので、すぐ答えは出てこない。
一方で、今、浮かんだ言葉は、あまり関係なく、生物学的な意味での「生殖」および子孫を残すこと、だ。 なぜかというと、私自身昨年、初めて、子供を持ったからだ。 確かに、子供はかたちのある、自分の遺伝子、あるいは生きた理由の証となるからだ。 結論的に言うと、この回答はいろいろなことを答えてないので、また別の機会に話したい。
ということで、先ほどの自問を少し考えてみたい。あるいは、煮詰まったら、明日は別のトピックで始めるかもしれない。
それでは、本日は体調万全回復を祈って、いまから寝ようと思う。
そう、私は結構、よく寝る人かもしれない。うーん、睡眠と人生の目的というトピックも、また扱いたいな。 いかん、いろいろな発想が湧き始めたのが、ここは止めさせてもらいます。
それではまた。
何のために人は生きるのか?
いきなり、今日のタイトルを自問してみる。われながらラディカルだ。
思春期から始まる10代を通して、特にこの命題を自分自身によく問いかけたことを思い出す。
当時は、こういう根本的な質問を考えた上で、何かそんな明快な答えが出るものか?、と半ば諦めに近い気持ちを抱きつつも、なんとなく、いつか、なんらかの経験と物の見方、あるいは発想の転換を経て、気持ちが昇華されていくのでは、と淡い見通しを持っていたかもしれない。
しかしだ。 38歳になって、当時の問いかけの答えは残念ながらみつかっていない。
また、思わず、「はっ」、と気付くのは、その問いかけの仕方も大して変わらないという事実だ。
そう感じると、おそらく自分自身が成長していない証拠なのか、不安を覚える。いや、人間のうち何%は私みたいな人がいるに違いない、と思いたい。 たくさんの中の一人の人間だから。
しかし、自分自身をとりまく環境はずいぶん変化したことも事実だ。だから、他人がどう思おうと、自分なりに振り返って、それなりに、理由をもって生きてきた、と、まとめることはできるのかもしれない。 一方で、そのような表層的な判断は、自分の本質的な声ではない。 なんというか、私自身というもの「自我意識」が芽生えた中学生の頃から、ずっと一つの意識体のような、自分自身の身体と一体化していない連続的な想起(?)が、現実の人間として送るべき日常活動から遊離しつつ、問いを続けているようなのである(このような説明は、このブログを持って、意識的に初めて書いたので、勘違いのような気もするが、遂に今、自身の哲学の旅に発ったようだ)。
ちなみに、「哲学」などと、偉そうなことばを書きたてているが、私はどちらかと、いい加減な性質の部類に属する。 いわゆる、西洋の思想の歴史などの本の概説を読んだり、原書の日本語訳の本をパラパラめくって読んだりして、デカルト、カント、ヘーゲル、サルトルなどの思想のポイントを掴もうとし、それを自分自身に照らし合わせるという作業をしつつ、また、各著者の論理の緻密さに感動しつつ没頭をたしなむ程度のたぐいのものである。 加えて、昔読んだ本であるから、内容もきちんと覚えてもいないことも多い。 だから、世界の思想を縦横無尽に操りながら、ブログで自身の博識をひけらかすという芸当も全く自信はない(別に今、誰に向かって書いているかもわからないので、言い訳する必要もないが、やはり、発信する以上は、記録も残るし、知ったかぶりする恥ずかしさも耐えられないし、内容にIntegrityを持ちたいので、言い訳しています)。
さて、本題に入ると。 私は中学・高校性の頃は、あまり価値判断を加えず、いろいろな本をつまみ読みした覚えがある。 観念論とか唯物論とかいろいろあったが、初めて、結構インパクトがあったのは、やはり実存主義だと思う。
キエルケゴールなのか、サルトルなのか、誰からの感化かも覚えていないが、つまり、私の理解の仕方はこうだ。人間の存在意義を問うことも良いが、一度そうした態度を白紙にしてみるがよい。 それでもおまえは存在しているだろう。 だから、存在している目的を問うのでなく、存在している、という出発点に立った上で、お前は命がある限り、何でもできるんだぞ。 このような励ましをどこかの本から受けた記憶がある。
実存主義の解釈は間違っていたら、直して頂きたいが、そのように解釈していた。おそらくGoogleで今、言葉を検索すれば、正しかったかどうか、確認することもできるのだろうが、そうしたお勉強は、また別の時にして反省もして、レベルアップに努めるとして、今は徒然と書かせていただく。
しかしだ。 しかしだ。 このことは、実は、人は何のために生きるのかについて、解答を放棄しているのだと思う。 ところで、これに関連して、明石屋さんまの座右の銘として「生きているだけで丸儲け」、というようなことを彼が言っていたのを思い出す。 この考えも、実存主義に近いのではないかと思った。
おそらく、日本の現代社会の欧米化が浸透していく中で、従来の地縁・血縁・職縁を気にしながら生きていった時代から、ポコッと抜け出て、型破りな生き方を志向した人は、今はたくさん増えてきていると思う。そういう人たちは、実存主義的な諦観と前向きな気持ちで人生を駆け抜けていったのだと思う。 しかしだ、私はそのような割り切りは出来なかった。 そう、そういう思想に刺激を受けつつも、やはり生きる目的を問い続けたのです。
書けば、書くほど、いろいろ思いつくことも出てくるが、もう夜遅いので、今日はここで止めます。
それでは。
