備忘録番外編No.5
韓国での商売の過程でいちばん苦労したのは、ミシン場で働いている人とのコミュニケーションでした。韓国人の知人は日本の大学に留学していたので日本語での会話には全く問題がありませんでした。韓国人でも高齢者は日本語が分かる人が殆どですが、現場で働いている人の平均年齢は四十代が殆どで全く日本語はわかりません。韓国人の知人がいない時には、サボタージュをする従業員が多く、注意をすると喧嘩腰になって向かってくる従業員もいました。
韓国知人から、韓国語を覚えたらと提案され仕方なく勉強を始めたところ、日本語と韓国語は小生の知る限り世界中で言語体系が似ているのは日本語と韓国語だけだと知りました。テニオハも有り単語も似ているものが多く、後に韓流ブームで韓国語を学ぶ人が多くなったことも理解できます。ハングル文字もついでに覚えだし、1週間ほどで読む事には不自由しなくなりました。しかし、韓国語独特の発音でパッチムというのが有り(子音+母音+子音の組み合わせ)、これは未だに間違える事があります。現在の韓国の若者でも正確に記述出来ない人も多いとの事。面白いことに言葉を覚える途中で、ナップンマル(悪い言葉)を覚えてしまい、韓国人の従業員の会話を聞いていて喧嘩になる事も多くなってしまいました。韓国語を少し理解する日本人という事で商売相手の韓国人に騙される事はかなり少なくなりました。
小生の地元の横浜は昔から在日コリアンが多く、幼馴染にも2世が多かった為、幼馴染の人脈から韓国の外交官等とも人脈ができた事は良きにも悪しき事にも?便利になりました。
韓国での商売が忙しく、製品の輸入が間に合わない時には、200キロ超えの荷物をハンドキャリーで持ち込む事が頻繁に有り、その際には韓国語を少し理解できる様になっていた為、航空会社や税関での対応がスムーズになりました。
韓国で商売を始め韓国に滞在している時に、最初のうちは韓国の旅館と言われている安宿に宿泊していました。日本円で一泊千円程度で、狭い4畳半ぐらいの部屋で、鍵がかかりますが金品は絶対置いておけませんでした。渡航が頻繁になってからは宿泊費も勿体無いと思い、ヘイバンチョンという地域に、韓国人の知人の名義で一軒家を借りることにしました。当時、韓国では日本人名義では物件を借りる事もできませんでしたし、銀行口座も開けませんでした。1996年1月に外国人でも銀行口座が開設可能になり、小生は現在は無くなってしまった「国民銀行」で外国人としてはじめての口座を開いてもらいました。当時は事務所を梨泰院(イテウォン)の警察署の隣のビルの地下に設け、事務所から歩いて通えるヘイバンチョンで滞在中は生活をしていました。ヘイバンチョンの借家は補償金を払うと家賃が不要なチョンセと言う韓国独特のシステムでした。その当時の韓国の金利はとても高く、家主は金利で儲けられる時代だったからです。韓国から撤退する際には補償金が全額戻ってきました。
少し長くなったので、続きは次の番外編で書きます。
