女子高生コンクリート詰め殺人事件 [週刊誌:FLASH] | ブログ

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FLASH 2004年8月17・24日合併号

準主犯格・神作譲(33)ほか“鬼畜”加害少年たちは今…
徹底追跡ルポ――女子高生コンクリート詰め殺人事件“15年目の真実”


「かみさくじょうです」。名前を尋ねた裁判官に、180センチあまりの長身の男は答えた。
7月28日に開かれた、逮捕監禁致傷事件の被告・神作譲(33)の初公判。被害者男性に東京・足立区内で暴行を加え、車に乗せて母親の経営する埼玉県三郷市内のスナックに監禁。
「俺の女を取っただろ」とさらに殴る蹴るの暴行に及んだという事件である。

検察側は神作被告が『俺は人を殺したことがあるんだぞ。本当に殺すぞ』、『俺は10年懲役に行ってきた。警察や検事を丸め込むノウハウを学んだ。何があっても出てこられる』などと脅迫したと主張したが、被告はこれを否認。「これだけで逮捕監禁とは、なんとも言えないんですけど」と述べるなど、その姿に反省の色はなかった。

神作被告がかつて起こした事件。それが15年前の「女子高生コンクリート詰め殺人事件」である。’88年11月25日、三郷市の高校3年生A子さん(当時17)はバイト先から自転車で帰宅途中に姿を消した。発見されたのは’89年3月30日。コンクリートを詰められたドラム缶の中の腐敗した遺体という変わり果てた姿だった。

少年A(当時18)、B(神作被告・同17)、C(同16)、D(17)の4人らは、A子さんを猥褻目的で誘拐して足立区綾瀬の少年Cの自宅2階に監禁し、41日間にわたってレイプや暴行を繰り返し殺したのだった。事件ではこの4人が起訴、ほか少年3人が少年院送致などされたが、その凄惨極まる暴力の内容は例えばこうだ。小泉今日子の『なんてったってアイドル』の曲に合わせて「イエイ」と歌うたびに殴る。武田鉄矢の曲で「頑張れ」のフレーズに合わせてリンチを加え、女子高生は呟くようにしてその歌を歌っていた。50数キロあった体重は30キロ台に…。

また、監禁現場の目撃証言によれば「女のコが全裸で柱に縛りつけられ、部屋の中にはシンナーや酒がごろごろあって、もうひどかった」という状況。まさに鬼畜の所業である。

’91年7月、東京高裁はAに懲役20年、神作被告に懲役5年以上10年以下、Cに懲役5年以上9年以下、Dに懲役5年以上7年以下を言い渡した。主犯格のA以外はすでに出所している。彼らの「今」を追った。


少年B=神作被告の出所後
神作被告は’99年8月に出所。4年前(2000年)に中国人女性と結婚、昨年(2003年)離婚していた。「神作は日本では働けないと思い、中国で生活するために結婚したようだ。だが、離婚でそれは実現しなかった」とは、さるジャーナリストの話だ。

出所後、一時コンピュータ関連の会社に就職したが、’02年ごろからは仕事に就かず、暴力団に出入りするようになった。同級生はこう語る。
「今回の事件報道を見て、仲間と連絡を取り合いました。みんな 『やっぱりあいつはダメだったなぁ。懲りないやつだよ』 と話していましたよ」

母親と暮らしていたのは、埼玉県八潮市の木造2階家の2階。1階に入っている設備関連会社の関係者が言う。「お母さんは髪が長くてちょっとハデめ。気さくでいい人だったんじゃないの。せがれは昼間からラフなジャージー着てて遊び人なんだなと思ったね」

向かいの商店主はこんな印象を語る。「息子さんは髪を金色に染めていました。『黄色くなっちゃったね』と言ったら笑ってましたよ。道の向こう側を歩いていても会釈するし、あの人が昔、人間とは思えないひどい事件を起こしていたなんて信じられませんでした」

母親のスナックで、ホステスを務める女性は今回の事件後、コンクリート殺人事件を知ったという。「7月5日にテレビを見てたら『元コンクリート事件のB』 だって出てて初めて知ったんです。ママからは『ばれちゃったね。今までずっとひた隠しにしてて、ただただ無理して明るく振る舞って生きてきたけど、もうどうしていいかわからない』っていうメールがきました」

神作被告にも前の事件の“後遺症”は出ていたようだ。ホステスが続ける。
「昼間でも『ギャー』とか『ウー』とか叫び出すことがあったって。きっと感情を抑えられなくなるのよね。譲君は『おふくろ、俺の前にいないでくれ。いるとおふくろを殴ってしまう』って言ってたらしい。譲君もママもずっと生き地獄なんだと思う。死刑になったほうがよかったのかもしれない…」

現在、母親は店にも顔を出さず、自宅にもいない。「たぶん、車の中で寝泊まりしているんだと思います。最近、ママと会うといつも靴が同じなんです。お店に来る前にお風呂に入り、お店が終わってからもう一度入るような人ですから、靴が同じなんて考えられないんです」(ホステス)

7月29日に母親に会った際、母親は神作被告から手渡された手紙を見せたという。「『これからは警察の世話になるようなことは二度としないから、おふくろも心配しないでくれ。しばらくの辛抱だからしのいでくれ』って書いてありました。『そんなふうに言われると信じちゃうのよね』ってママは涙を浮かべていました」(ホステス)

一方、事件後離婚し、別の家庭を持つ父親は本誌の直撃に、「帰ってください」と繰り返し、玄関のドアを閉めた。

主犯Aと監禁現場宅のCは…
Aは現在も服役中だが、’08年ごろ出所する予定だという。以下は法曹関係者の話。「Aは関西地方の保護司と養子縁組して、まったく別の戸籍に入る手続きが取られました。妹もいるし、家庭のことを鑑みてのことでしょう」

監禁場所だったCの自宅は事件後取り壊され、今は別の住居が建っている。近所の住民が言う。
「もう15年もたつのねぇ。仕事から帰ってきたらロープが張られていて、事件を聞いたときはもうびっくりでしたよ。C君の両親は事件後しばらくして引越していったし、その後どうしているか…」

両親が移ったのは埼玉県内である。父親が4~5年前まで勤めていた生花店社長はこんな話をする。「私生活のことはいっさい話さなかったから、事件のことは知らなかったよ。酒ばかり飲んでいたという印象だね」

現在、両親が住む家を訪ねると、父親とおぼしき男性がインタホン越しに「お話しすることはありません。お帰りください」と語るのみだった。

Cは出所後、一時両親のもとに身を寄せていたようだが、その後埼玉県内の1Kの木造アパートで暮らしていた。が、そこも1年ほど前に引き払っている。「仕事は運送業だったと思います。独身でした。4万数千円の家賃を毎月きちんと持ってきていましたし、普通でしたよ。アパートを出るときは、仕事を辞めていたようです」(アパート大家)

今回の神作被告の事件をCは知っていたようだが、さる友人には「何も答えたくない」と語っている。

少年Dの母親が本誌に語った。
Dは清掃の仕事をする母親と暮らしている。「あの事件のことは、どうして防げなかったのか今でもずっと考えています。息子は出所してから仕事はしていません。目が見えなくなる病気にかかっていて、すぐ入院しないといけないのですが、お金がなくて家でずっと寝ています。夕方になると近くの商店街に晩ご飯を買いに行き、自分の部屋に持って帰って食べています」

姉家族だけには心を開いているようだが、母親とDが顔を合わせることはほとんどないという。もっとも、最近は“日曜大工”をすることも。「エアコンを取り付けてくれたり、100円ショップでカーペットを買ってきて敷いてくれたりしています」(母親)。

事件後は(犯人の)親たちの間でこんなことがあったとも。「しばらくはお盆に親御さんが集まって事件の家に花を捧げに行っていました。でも最近はもう連絡を取っていません。皆さんも連絡を取りたくないでしょう」

母親は「買い物に行った息子に会うといけないので」と、いつもと違う道を隠れるように歩きながら語った。その姿からは、死ぬまで息子の面倒を見るしかないという諦めが伝わってきた。

A子さんが遺棄されていた、江東区若洲の現場には物流センターの建物が建ち、空き地だった当時とはすっかり様変わりしていた。「当時は寂しい所だった。あんなところに捨てられて、可哀相だったね。本当に悲惨な事件だったよ」(現場近くのセメント会社の運転手)

少年らはその罪を一生、背負わなければならない。