女子高生コンクリート詰め殺人事件 [爪痕] | ブログ

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警視庁綾瀬署は東京都江東区若洲の埋め立て地で、1989年3月29日にコンクリート詰めのドラム缶を発見した。ドラム缶を解体すると、中から布団に巻かれた女性の死体が見つかった。コンクリートで密封されていたため遺体は腐敗していなかったものの、遺体の状況はあまりにも惨たらしいものだった。
女性の顔面は変形と陥没がひどく、外見からの判別は全く不可能。また、全身が殴打によって腫れあがり、ライターで焼かれた痕も多数あった。そして、皮下脂肪の厚さは通常の3分の2しかなく、ひどい栄養失調の状態だった。

これが世を震撼させた「女子高生コンクリート詰め殺人事件」である。

被害者の女子高生は41日間にもわたって監禁され、衰弱死したのだ。鬼畜のようなすさまじい暴行と陵辱の犯行状況は、当時、報道されているため、ここでは改めて触れない。
この事件では7人の少年が逮捕された。そのうち、A(当時18歳)、B(同17歳)、C(同16歳)、D(同17歳)は懲役刑を受け、少年刑務所に服役した。残りの3人は少年院に収容された。

弁護士の伊藤芳朗氏は、公判で少年Bを担当した一人だ。
「初めて接見した時、Bは『彼女はかわいそうだったけど、遊んでやったんだからいいじゃない』と開き直っていました。それを聞いて、私はぶん殴ってやりたいと思ったほどです。
しかし4人の弁護士が接見を繰り返すうちに、Bは被害者の名前を聞いただけで涙ぐむようになりました。自分の親子関係に対する不満がたまった挙げ句に心が荒れ、こういう事件を起こしてしまったという非行のメカニズムを彼自身が理解したからです」
しかし、反省するまでになった少年Bだったが、彼は刑務所の中で精神的な病に冒されてしまった。
「罪の意識に苛まれ過ぎたんです。自分の罪の重さを理解すればするほど、それを受け止める素地がない。だから、自分の罪に押しつぶされてしまったのです」
親子関係も修復するに至っていないという。

少年Dも精神状態が芳しいとはいえない一人である。当時、この事件を取材し『少年の街』を書いたルポライターの藤井誠二氏は、出所後のD宅へ通い母親へインタビューを行っている。
「もともとDはイジメられっ子で、Aの暴力的支配によって、あの事件に引きずり込まれた。出所後は母親とひっそり暮らし、家に閉じこもっている状態です」

藤井氏は、家裁で中等少年院送致処分を受けたF(当時16歳)という少年にも、事件から7年後に会っている。Fは両親と絶縁状態となり友人たちとの接触も断っていた。その後は新聞配達で生計をたて、ひっそりと暮らしていた。
「Fは事件の全容さえ知らされないまま出所していました。それで私はFに刑事裁判の全記録を読ませ、彼と話をすることにしました。彼は初めて事件と向かい合い、なぜAに抵抗できなかったのか、なぜ少女を助けてやれなかったのかを反省したんです」
監禁中、暴行され放心状態になった被害者は、Fにこう呟いた。
「私はいつ帰れるの?」
この時の表情がいまだにFには忘れられないという。
「Fはこの時のことを忘れてはいけないと思い、被害者の供養を続けています」

4人の少年たちの家族は事件後、すぐに住んでいた家を離れている。まだ刑期中である主犯のAは、公判中「灰谷健次郎の小説を読んで、初めて自分が悪いことをしたと気づき、涙を流した」という旨の上申書を提出した。今でもAが本当に反省しているのならば、あと数年で彼は少年刑務所から仮出所が認められるだろう。しかし、他の3人の少年が出所後の社会生活で苦労している姿を見ると、Aの社会復帰は難しいといっていいだろう。世間の目も厳しく、きちんとした就職先に就ける可能性は非常に低いと言わざるをえない。

また、藤井氏はもう一つの問題点を指摘する。
「刑事裁判を受けたのは4人だけですが、監禁されている少女を見に行ったり、強姦に関わった連中は他にもたくさんいるわけです。監禁の事実を知っていながら助け出すことをしな かった連中の存在が、事件を支えてしまったんです」
犯罪に加担しながらも、社会的制裁を受けることがなかった少年たちも大勢いるのだ。彼らは罪を認識できているのだろうか。
冒頭にも述べたように、刑事裁判を受けなかった他の3人の逮捕者の中には、全く反省していない者もいる。その少年は「結婚しようとしたが、相手の両親に事件のことがばれて結婚できなくなった。もう終わったことなのに」と、取材した記者に言ったそうだ。彼は少年院で罪の重さを認識したのだろうか。そうであれば「もう終わったこと」などという言葉は出てくるはずはないのだが。