後藤新平と予讃線 ― 多度津来訪の記録(修正版)
出典:銀杏4号(昭和51年3月)
「私の音楽物語」米田一草氏 投稿
■ 時代背景
**明治43年(1910年)**のことである。
当時、影山甚右ヱ門氏が衆議院議員、町長は浅見益之助氏であった。
予讃鉄道の路線について、
- ① 丸亀を起点とし、鳥坂を通って観音寺・松山へ向かう案
- ② 多度津を起点とし、海岸線を延長して観音寺・松山へ向かう案
の二案が対立しており、その実地調査のため、
鉄道院総裁・後藤新平が来県することとなった。
■ 後藤新平、多度津入り
明治43年5月、後藤新平総裁が多度津入りをされる日、
観音寺を過ぎ、鳥坂で引き継がれた。
当時は自動車がなく、
中ノ町・西山医院のゴム輪の人力車を一台借り受け、
前引き二人、舵取り一人、後押し二人、計五人仕立てであった。
さらに、
自転車隊 九十六名 全員袴姿
これは、当時多度津にあった自転車の総数が九十六台であったためである。
■ 沿道の大歓迎
二ツ橋 → 鍛冶屋町(桜川町) → 大通町 → 東浜 → 会場
この沿道には、
町民が手に手に日の丸の小旗を振っての大歓迎。
現在の天富堂は、当時は多度津銀行で、その角に交番所があった。
高等小学校の生徒は、音楽隊を中心として二列の横隊を編成。
煙火二発が、多度津入りの合図である。
万歳の声が、大通町の方から次第に近づいて来る。
■ 金毘羅橋での場面
金毘羅橋に自転車隊が四十台ばかりと、
総裁の車が橋にかかった時、
音楽隊は総裁の作った歌を演奏し、
男女学生はこれを合唱。
総裁は右手を挙げて応え、通過された。
■ 盛大な歓迎式典
会場は、築港にある景山氏所有の土地
(現在の日讃製粉の地所)。
そこに大きな天幕を張った歓迎場が設けられ、
音楽隊と合奏団は移動して、
再び総裁作歌を合唱。
多度津町を挙げての、
空前の歓迎行事であった。

