インターネットを歩いていると、色々な議論に出会う。色々な人がいる。

とんでも無い事を言っている人がいたり、またそれに感心する人がいたり。

巧みな論理を使っていたり、でもそれがソフィスト的な修辞だったり。

自己弁護もあれば、他者排撃も。熱心もあれば、冷めた姿勢も。

大人としての分別が持て囃されれば、個としての情熱が叫ばれたり。

反論あるところに雄弁があれば、正論とされるところに詭弁を見いだせたり。

リリック。ロジック。レトリック。誹謗中傷の永劫回帰。ネット状勢は複雑怪奇。

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「それは違う!こちらの学術の方が確かな裏付けが……」

そこまで言って私は席に座った。熱くなっているのは自分だけと、ふっとそう感じた。

大学を卒業する間際、「社会福祉政策についての考えを」ということで議論をしたことがあった。社会福祉法人の意見交換の場所で、なんとはない議論であったが、熱くなった。周りは全て一周り二周りも年長者であり、その落ち着いた風で慈愛の目を向けられると、私は場にいるのが苦しくなった。結果、決議を待つこと無く退席した。帰りながら、(今ごろ会議は終わってて、きっと笑われてるんだろうな)、と一人傷つき続け、同時に強く後悔した。失ったものも少なくなかった。

二年間くらい研究を続けていた福祉政策で、持論には自信があった。抗する意見があるのが信じられないほどだった。

「それは理論としてが限界。法の効用が強すぎると現場は窮屈になる」

この立証無き一点張りの反論に、私は煮詰めていくことになる。しかし今思えば、その立証を聞き出せなかった自分に非があると思っている。私も聞く耳を持っていなかったのだから。

退席後、私は世にも不名誉な帰路につくわけだが、先程も述懐した通り余りにも心のバランスを崩していたので、ふらふらと図書館に寄り、読んだ事も無い哲学書に手を伸ばすに至る。

だが全く頭には入らない。ただ分厚い本に並べられている文字を眺めるだけ。それだけで心が落ち着いた。

そうして3時間ぐらい本棚の前で、ぼうっと立ち尽くしていた頃だろうか。人生の巡り合わせとは実に不思議なもので、その最悪の一日の何とは無い時間に、生涯の座右の銘と邂逅することになる。

今でも忘れることは無い。その重厚、その衝撃。きっと、座右の銘に出会うときというのは全身から鳥肌が立つものなのだろう。

『「違った在り方も可能とするもの」、それが議論が成り立つ定義である』

アリストテレスである。まさにそのときの私には運命的な言葉に思えた。傷心に効く、劇薬であった。

――

人生とは人と人との交流で、それは議論にも等しくはないだろうか。自己との議論、他者との議論が続く。とすれば人生とは内外の交流であり、議論である。

違った在り方もあるということを思うこと、延いてはそれが自己の違った在り方を可能としてくれるものだということ。広い視野を持つというのは、多方面の角度から問題解決に続く発想を生み出せるということだ。これは、自己の内外で問題噴出の世の中にあって、非常に尊い能力である。

議論無くして決議無く、決議無くして何も変わらず。何も進まず。議論を交流という言葉に入れ替え、そのまま人生に準えたい。