急速に移り変わるこの情報化社会に置いて行かれないようにと、長女の貯金箱を壊し携帯電話を買ってみて早14、5年。ようやく馬群に追いついたと安心したのも束の間で、世の電気機器はさらに大外から速度を増し進化をしていった。その後の私はもはや、尻尾の影をも踏めていない有り様である。

おまけに根からの機械音痴であり、タイプライターでさえ上手く使いこなせなかった私には、複雑の極みともいえようパーソナルコンピューターの詳細な使い方など、もはや哲学に等しい。

一例である。パソコンを苦労の末に初めて購入したとき、喜々として私はあちこちにメールアドレスをばら撒いたものだが、肝心のメールの読み方はなんと分かっていなかった。やっとの事で見れる様になる訳だが(二週間)、その時に入っていたメール、「今夜は上弦の月が綺麗だよ、風かおる君」、一息入れながらメールを閉じて、何とも感慨深げにカーテン越しの世界を覗いてみると、立派な下弦のお月さまが東京の夜を照らしていた。

機械など、上手く使えないとどんなに面白いものも面白くない。日常の中でコンピューターゲームである。機械音痴である事を自分でもわかっているだけに、日常の何もかもがデジタル化されていく事に一抹の不安を感じ始める。

「いやいやむしろ、こと機械に関しては機械の複雑化とは反比例をし、それの扱い方は難しくなくなってきていますよ」

私の弱音にすかさず友人Sさんである(彼女がエスであるかとかそういうのとは無関係で、苗字から頂戴した)。なるほど、確かにそうだ。つい昨年新しいパソコンを買ったのだが、何もかもが初期のものより簡単に使えるようになっていた。

昔のパソコンは今思えばかなり酷かった。おそらく私のコンピューター対処能力を考慮に入れないでも、インターネット一つ開始するのにやたらとやらないといけないことがあって、さらに接続の待ち時間にしても今とは比較にならないほど長く、とにかく随所に手間がかかった。パソコンとはそういうものだった。

今は一秒さえ待つこともなく、立ちあげれば接続環境が整っており(旧型を除くが)、ネットを始めるのに詳細な説明書を読む必要が無く、クリック一つである。

specialty(専門性)ではなく、文字通り、誰のものでもあるpersonalなものとなった。誰もがイライラせず、待つことの我慢も経験することなく、簡単に“使える”様になった。



さて“使える”と書いた。昔は機械もある種、そろばんや包丁などと同じように、経験的な能力が無ければ簡単に使えなかった。

元々道具というものにはそういう側面がある。様々な経験的な過程を踏んで、初めて“使える”、または“使いこなせるようになる”のである。そしてその道具に対しての認識が育まれ、人は道具に愛着さえ持ったりするのである。初めて包丁は“包丁”となり、バットは“バット”となる。

「俺、パソコンが使えるよ」は友人M君(名字から頂戴したが、彼は疑わざるエムである)の言葉だ。この言葉が昔はかなり輝き、重宝された。、今はもうそれほどのことも無く、「パソコン持っていないの?」という会話が小学生の間で出るくらいである(インターネットの使い方に限った話で、ワードやエクセルなどの能力は問わずに考える)

昔の道具は使えるまでの過程に色々あったから、“使える”人にはありがたみがあった。例えばパソコンなら、以前は度重なる不備や、接続など、待つことを我慢することが当たり前で(もっとも今の円滑化の時代を当時は知らない訳だから、当時は我慢しているという感覚さえ無かった)、その上でネットと向き合うという、いわば寛容な心構えが使い手に有ったといえる。逆に言えば、使い手が些細な無駄に我慢できうる人間だからこそ、現在の様な無責任なネット問題も当時少なかったと言える。また、そういう我慢の過程で人間の許容力が養われた。


今、急速にデジタル化されていく社会は、そういう過程を飛び越える。箱を開けばネットがあり、そこに何らの待ち時間、障害も無い事は当たり前である。手間がかからないことは、現代の最新鋭の一商品として、不可欠なのである。

しかしそんなデジタル化社会の基盤の中で、我々の日常には、極めてアナログな場面、状況、道具がごまんとあるのだから問題は起こってくる。そうした状況が時にデジタル化社会の常識で処理されてしまうからである。

ひずみが出来るのは、アナログ的な捉え方からすれば、当たり前だ。例をとれば、アナログ時代、かつての道具には現代の精密機械の様にあれこれと完璧なものはなかった。しかしそれらを人間の経験的な部分で埋め合わせ、上手く使いこなす(例えばそろばんの早打ちのように)という積極的な完成を見せた。

これは人間関係にも言えたのではないか?

昔は対人同士のひずみには寛容で、自己と対局する人間がいても、そこには今ほどの排斥的な思考が無かったように思われる。デジタル化とは離れていて、人を記号のようにすぐ消したりする回路が鈍く、むしろ象徴的な青春ドラマに代表されるように、心と心での積極的な完成を志向した。

 昨今の人間の精神性の変化に、道具の進化と同じものをみる。これは人間は幼い時よりずっと、道具を使い続ける生き物だからこそ、道具が人間の形成と切って離せるものでは無いということではないだろうか。ヒトは道具を創るが、道具もヒトを創る。そう考えると、この昨今の急速なデジタル化に、やはり大きな不安を感じずにはいられない。