再び
メサイア未見の方、
メサイア好きな方は読まないでください。
ほんっとにごめんなさい。
メサイア好きな方は読まないでください。
ほんっとにごめんなさい。
東京初日、熱量が更に深くなっている、あの民が四郎を「メサイア」と崇める場面を観て来ました。いえ、見てはいません、怖いから見られない。
大劇場の初日に書いた記事のまま印象は変わってない。
恐ろしすぎて見ることが出来ないし拍手も出来ません。
ただ、天草の民たちが四郎の「神は我らの中にある」との演説で、カトリックを捨てて四郎教へ変節したのは理解できます。
あの地獄ともいえる迫害の中で、ここに至るまでも民ひとりひとりがそれぞれのタイミングで、自分の信じるデウスを心の中で疑ってしまうことがあったでしょう。そして神を疑ったことを都度取り消し懺悔してもいたでしょう。
そこに現れた天草四郎。各々が心の奥底に隠していた「神の否定」を白日の下に曝し、新しい価値観を提示する。棄教という崖の淵に立っていた民たちにとって四郎の存在や主張はただのきっかけでしかなかった。
現世利益にこだわり現世利益を説く四郎に、雪崩のように傾倒する彼らを理解は出来るのです。
だって、人はいつだってそれほど強くは無いから。
ただだからこそそれが苦しいから縋るカルトに見えてしまう。
だって、人はいつだってそれほど強くは無いから。
ただだからこそそれが苦しいから縋るカルトに見えてしまう。
バチカンが原城で逝ったキリシタンたちを殉教と認めないのは可哀想だと思ってきましたが、この『メサイア』を見て理解できました。カトリックの正当な宗教指導者不在状態で変節していく教え、これを容認していては宗教の独自性は保てない。それでなくてもこの時代、カトリックとプロテスタントが、国と国で争っていた時代です。この原城でこの四郎に従ったキリシタンたちをカトリックが異端としてもおかしくはない。
宗教の変節。
日本はもともと異国から入ってきた宗教を自家薬籠中のものとしていく国で、それを私は面白く思っています。
なのにあの場面に対する私の恐怖はどこから来るのか?
多分それは宗教の現世利益。神に現世利益ばかりを追い求めるマレビトの四郎。
そして、異界に還る際に人々を連れて行ってしまう。ハーメルンの笛吹きのような四郎。それが恐ろしいのです。
そして、あの場面での右衛門作。
私、大劇場ではただただ四郎教に傾く民たちを、正しくカトリックを理解して信じている彼が拒否しているんだと思ってました。
が、東京初日、私が見た右衛門作は、あの場面で棄教していました。そして棄教することを神に懺悔していました。
彼はあの場で二回十字を切り二回手を合わせます。
何故二回なのか、その二回に違いはあるのか。
カトリックの教えとは明らかに違う四郎の言い分。それが間違っていると充分にわかっていて、その四郎の言い分に縋りメサイアと崇める民たちの挫ける心も分かる。
だが、分かったとしても今の自分がそれを認める事は信仰上できない。
だから、自らが自らの意思で真のデウスから離れる決意をする。
天草の島原の民たちと共にあるために。
東京初日に私が見た右衛門作は、カトリックのparaisoへ往く道を閉ざすことを自ら選んでいました。
民たちの信じた四郎のはらいそへ共に行くために。
四郎に傾倒していく民を見て恐怖を覚え、「違う」と首を振りデウスに救いを求める一度目に切る十字。
そして、自ら棄教を決意しはける直前、神への決別となる十字をもう一度切ります。あれが彼の生涯で最後に切る十字となるのです。
その後の彼は異教徒として残りの人生をデウスに縋ることなく生きていくのです。
たったひとりで。
と云うのは、私が勝手に舞台から受け取った印象であり、演出家の原田先生や演じる光くんの解釈とは違って当たり前なので、ご了承ください。