13日は雨模様の予報が一週間前

 

から上がっていたが、晴れ男なの

 

で雨はないだろうと、予期して

 

いたように曇りで、陽射しも

 

強かった時間があった。

 

昼前には電車に乗り、海老名で

 

乗り換えたがJR相模線は単線な

 

ので、ちょうど海老名で時間調整

 

をして停車していた。乗ると20秒

 

もしないで出発した。

 

終点の橋本でJR横浜線に乗り、片倉

 

で降りる。ここから歩いて京王線

 

片倉まで5分くらい。

 

その途中で違和感たっぷりのいぬ小屋

 

を見た。

 

いぬ小屋にガチョウである。夏なのに

 

雪だるま(人形)。

 

始めに思ったのは飼い犬が逃げたか

 

死んだので、代わりにガチョウの

 

人形を入れているのかと。酔狂だ、

 

と思ったが、違和感は「いぬ」とい

 

う表札だった。

 

ふつうは犬の名前を、例えばポチと

 

かを表札にするが、犬に「いぬ」と

 

いう名前を付けるのは一般的ではな

 

いばかりか、思いつかないし、わざ

 

わざそうは命名しない。

 

始めから犬小屋もガチョウも飾りで

 

置いてあるのかと。ガチョウは調べ

 

ると、ヨーロッパでは見知らぬもの

 

を追いかけてガアガアうるさいので、

 

番犬の代わりに置いたとか。すると、

 

犬小屋にいるのは理に適っている。

 

どうでもいいことなので、忘れて、

 

京王線の駅までに湯殿川が流れて

 

いる。いつものように魚を求めて

 

覗くと、大きな鯉がいた。近所の

 

目久尻川にも北部公園そばで30,

 

その下流で20匹くらいいるが、それ

 

らより大きく70㎝はありそうだ。

 

浅い川なのでよく生き残ったもの

 

と感心する。

 

京王片倉駅からは高尾山口駅まで

 

すぐで、降りたのは12時半を回っ

 

ていただろう。駅から歩いて、

 

ケーブルカー乗り場近くまで来て、

 

そば屋に入った。軽く小丼を食べて

 

ケーブルカー乗り場に来てみると、

 

隣りにリフトもあった。

 

ケーブルカーで5分、リフトは12分

 

で中腹に着くらしい。スキー場以来

 

でのんびり行こうと思ったので、

 

リフトにした。スキーを履いていな

 

いので楽だ。

 

上り下りで途中にスナップ写真を

 

撮る関係職員のバイトが三脚でカメラ

 

を構えていて、勧誘してくる。いく

 

らか聞いて、1000円だと言っていた。

 

二人いるのだから、1日20人以上の

 

客がいないと、赤字になるなと、

 

要らない計算をしていた。

 

土曜日なのでケーブルカーに行列し

 

ているのかと思ったら、着駅にビア

 

ガーデンがあって、そこでスピーカー

 

で整理券番号を読み上げて順番に客

 

を入れていた。ついでにケーブルカー

 

の最終時間を見に行ったら、リフトは

 

16時半だったが、ビアガーデンの帰り

 

客用だろう、21時過ぎだった。なる

 

ほど夏は盛況のようだ。

 

 

エコーリフトは13:08に着いた。そこ

 

から目指す薬王院は30分ほどで登っ

 

てしまった。途中にたこ杉、登り階段

 

があって、これまでの高尾登山ではいつも

 

階段を選んで休まずに一気に登っていた。

 

蛸杉: 樹齢450年だそうだ。

 

一番下から数えたら108段あった。1段

 

と言えない低いのが3段あったが、登り

 

切ると百八段と書いてあったので、

 

やはり仏教の煩悩の数に合わせたようだ。

 

除夜の鐘と同じ。少し息切れして、休む。

 

薬王院本堂への入り口の門: 

 

カラス天狗が往年のままだ。

 

この正面には北島三郎が歌声を

 

響かせている?なんだ、と思って

 

そこの石碑を見ると、高尾山という

 

歌を作ったらしく、その歌詞の石碑

 

があり、そこに手形の装置があって、

 

手を置くと、北島三郎が歌う仕掛け

 

になっている。

 

高尾山の観光は人気が続いている

 

らしく、ご利益の堂が二つも並んで

 

賽銭を誘っている。

 

おみくじや開運札などが両脇で売っ

 

ていて、高尾山のかりんとうまで

 

名物らしかった。ひとつ「なしの

 

かりんとう」を買った。

 

その店の切れ目の階段を上ると、

 

薬王院本堂だった。いつもは

 

スタスタわき目も振らずに通り

 

過ぎてしまうところだが、今日

 

は足腰の確認一日目なので無理

 

はしない。

 

ここから少し登ると、奥の院が

 

ある。そこから頂上までは近い。

 

が、行かない。

 

薬王院を後にしてすぐに気づいた

 

が、またいつものようにお参りも

 

しないし、拝みもしなかった。

 

それは自分的には終わっていた。

 

高尾ではアサギマダラがよく見ら

 

れるらしい。全国で見られるが、

 

一般的には珍しい蝶で、座間市で

 

は未だ見たことがない。マダラ

 

チョウは優雅で飛ぶのも速い。

 

そのアサギマダラがリフトを

 

降りてから、すぐに出てきて

 

胸と腹の中間あたりを10cmの

 

近さでゆっくりと飛んで行った。

 

山が人を歓迎すると、大抵そこ

 

の特有の生物・動物が現れる。

 

それが歓迎されたと僕は考える

 

ので、山とはもう挨拶が済んで

 

いるのだ。

 

下りはケーブルもリフトももう

 

使うつもりはなかった。足腰の

 

調子が悪くならないからだった。

 

そこで僕は舗装された観光客道

 

をやめて、本格的な山道に途中

 

から入った。琵琶滝への山道で、

 

細いところもある山道で、雨が

 

降っていた時に、夜だったが、

 

懐中電灯も消して、歩いたら、

 

即転んだ。自分にはあり得ない

 

ことだと思っていたので、すぐ

 

に慎重になった。10年以上前だっ

 

たろう。

 

5分も歩かないうちに通行止めの

 

張り紙に出会った。しかし、その

 

倒木の向こうから歩いてくる人が

 

倒木を抜けて来るので、その先に

 

特に危険はなく、自分もそのまま

 

行った。

 

舗装の道を歩くのとは違い、木の

 

根や階段状の段差があり、足運び

 

も注意しなければならず、一足

 

一足に体重の負担が足腰にかかる。

 

そこに下から上って来た白髪の70

 

歳前後だろうか、もっと若いか、

 

少し上品な女性がひとり登って来た。

 

「こんにちわ」と声をかける。よく

 

山でやる挨拶だ。疲れた様子に

 

「あとちょっとです」と加える。

 

女性は何か言って、そのあと「後

 

どのくらいだろう、と思っていたの、

 

わかったのかしら」と言った。僕

 

は頭の中で「わからないでしょう」

 

が、言葉は「あともうちょっと」と

 

答えていた。よっこらと登ってく

 

る人の考えることは同じだから、

 

考えないでもわかる。

 

 

30分くらいは降りたろうか。

 

琵琶滝へは折れず、6号路(山道)

 

に出て東京高尾病院へ抜けると、

 

もう舗装道路だった。駅まで5分

 

か。高尾山口駅には15:00に

 

着いた。

 

 

なんのことはない、と思っていた

 

が、帰宅してからは非常に疲れた

 

のと、腰に痛みが生じていた。

 

(歩数計は16000歩)

 

背骨の上で背中と腰が二か所痛かっ

 

たので、負担がそこにかかったら

 

しい。 

 

翌朝も引きずったので、これは

 

ヤバいかと思ったが、午後からは

 

次第に和らいで、かなり回復した。

 

そして肝心の今日にはほぼ痛みは

 

なくなった。生来の自己治癒力は

 

まだ健在のようだ。

 

最近は図書館から10冊は借りて、

 

それを延長しているし、アマゾン

 

からも中古書店からも購入して、

 

20冊くらい、計30冊は本が増え

 

ている。

 

好奇心に任せるほど、買わない

 

ようにしているのだが、娘が

 

AMAZONのギフト券をくれた

 

こともあって、あればあったで

 

使ってしまう。読書などは追い

 

つく筈もない、笑。

 

 

高尾は初めての感想があった。

 

よく心が洗われたとかいう比喩

 

表現が世間にはあるが、それが

 

今回は(人生初めて)あったので、

 

少し驚く。

 

思えば、コロナ下で5年も山に

 

ご無沙汰だった。少し、晴れ間

 

が見えたのだろう。疎遠だった

 

二人の友人とも月末に会う約束

 

をしたので、楽しみも増えたせい

 

もあるのだろう。

 

それもこれも「無知の雨」を通り

 

越えてからの変化なので、すべて

 

の生きる意欲を失うあの時の感覚

 

を忘れてはならないのだろう。

 

まるで自分自身が反面教師のよう

 

なのだ。体は衰えても、今、これ

 

からも意欲が細くなるようなこと

 

はないようだ。

 

生命にこれといった答えはないの

 

だろう。人ぞれぞれが出した答え

 

が生きようとするものなら、それ

 

がその人の答えであって、それは

 

その人にとって正しい答えではあろ

 

うが、絶対の答えではないのだ。

 

自分の正しさでもって、人の答え

 

を批判することはできない。それ

 

が生命という終わりのないシステ

 

ムなのだろう。