今夜だけは 

 

この冷たくなった 心臓を 

 

温めて おくれ 

 

もはや 失ったものは 

 

取り返せない 

 

取り返そうとも  思えない 

 

そうやって  雑巾をしぼって 

 

バレリーナの ように 

 

僕の まわりを 

 

踊るよ 

 

そんな テーマがあったとは 

 

どこの 掃除なんだか 

 

一人 二人と 

 

増えて 

 

見ているだけで 疲れを 

 

誘う 

 

学芸会のように 

 

太い 足で 

 

うまく 回れないだろうに 

 

なにかが 

 

なにかという それが 

 

溶け出して 来る 

 

それを 期待しているん だろう 

 

でも それは もう 

 

僕を 温めては 

 

くれない 

 

あの頃の 君では ないから 

 

だろう 

 

僕を 支え続けた 

 

あの 嵐の日々では もう 

 

ないから 

 

僕が 愛を 求めていないから 

 

僕が  こうで あり得るのは 

 

それは あり得ないことが 

 

この世の 証明であるという 

 

僕の 心に照らした 

 

ものを  

 

遠くに  それは  遠くに 

 

置いてきて しまったから 

 

 

僕は それを 

 

取りに 行けない 

 

それほどに 日々 笑えなく 

 

なってしまった 

 

因果という この世の謎の

 

すべてを 解く 万能の

 

方程式を 観たが 

 

それは 確かな 自分を 

 

見た、ということだった 

 

答えを 見ようとして 

 

自分を 鏡に 写しているとは 

 

想いもしなかった 

 

 

因果に 終わりがなく 

 

無限に くり返そうとも 

 

それは 無限ではなく 

 

悠久の法則 でもない 

 

因果は でも 

 

僕の中で ・・

 

終わった 

 

答えが いらなくなった時点で 

 

それは 役目を無くすのが 

 

必然と言えば 言えるだろう 

 

 

裸の 世界 がある 

 

見えるのは 存在の 様相という 

 

複雑で 裏表が 息をして 

 

交替するという 

 

容赦ない 非用心の世界 

 

その 仮りの世界が見えると

 

ものと こととの 混用した 

 

なにものでもない 

 

見えない 聴こえない 世界が

 

現実と 夢とに 

 

同時に  僕らの知らない 

 

あるがままに

 

裸で 現れる 

 

 

現実の 荘厳さ 

 

夢の 悠久な 頬笑み 

 

そこには  思考・概念で 

 

ん?とか言っても 

 

なにも 現れない 

 

真実は死に  真理は 枯れたから 

 

あまつさえ 

 

なんと あまつさえ 

 

何度も 確認された事実だが 

 

それが 風評にもならなかった 

 

歴史事実が  ある 

 

 

ブッダは 因果に  巻き込まれ 

 

逆らえずに 死の道を 

 

ただ ひたすら進んだ

 

孔子は  礼節の 屏風の 

 

下でしか  天を 仰ぎ見得ず 

 

最愛の弟子を 失い

 

道(天)を 見ることはなかった

 

ソクラテスは  神のために 

 

真理という 疑問を 

 

その扉を 開けることができない と 

 

毒杯を 仰ぐことが 

 

神に従うことだと  信じた 

 

キリストは 磔にされて 

 

神に 理由を 懇願するが 

 

それを知ることはなかった 

 

復活して 弟子の前にあるが 

 

人々の前に 姿を 現わす

 

ことはなかった 

 

 

心について 信じたことを 

 

説いた者たちが いたが 

 

それぞれの 真理が 

 

それぞれに 過ぎないという

 

彼らの 袋小路に 

 

注目する者も なかった 

 

 

この 宗教染みた 

 

歴史上の 旋律は 

 

悲しく 聴こえる 

 

君は 何を感じたのか 

 

僕は  何を 見たのか 

 

心は 確かななにかで 

 

あろうとしたのか 

 

悲しみで 伝える以上の 

 

もので あったのだろうか 

 

 

夕暮れは 僕に 

 

なにを したのだろうか 

 

そこに 佇む 夕闇は 

 

僕に なにを 

 

望んだの だろうか 

 

まだ 蛍の気配もない 

 

池の 水面は 

 

ただ 静謐に ある 

 

 

暗さに 酔うことは 

 

むずかしい 

 

空気の 冷やかさに 

 

憧れるのは もっと 

 

むずかしい 

 

僕らは 焦らなければ 

 

できることを する 

 

できるだけのことを する 

 

そうして 心の声を 

 

聴こうとする 

 

答える声は  吐息に近い 

 

ほんとうに 聴こえたのかと 

 

いつも 疑い 

 

聴こえなければ それは 

 

思いつかないと 

 

思い返す 

 

 

君は 昔の 僕なのか 

 

大昔の 僕らという集まり 

 

なのか 

 

すこし 

 

すこし 

 

すこし ずつ 

 

君が 

 

来るのが 

 

・・・ 

 

わかる 

 

ありがとう 

 

まだ そこに いてくれて 

 

もう 遠すぎて 

 

声も 届かないのは 

 

知っていたよ 

 

永遠と  一瞬が 

 

同じ距離でない のなら 

 

絶対の距離も  ないだろう 

 

その矛盾が 

 

僕らの 心を 

 

支配して いる 

 

僕らは それを時間と 

 

混同するが 

 

永遠にも 一瞬にも 

 

時間という 間は 

 

ないだろう 

 

だから 時の感覚さえ 

 

感じないで 

 

その距離を 測れるだろうか 

 

一瞬で 永遠を  飛ぶことが

 

それぞれの 心で 

 

できるだろうか 

 

 

自己が ほんとうに 喪失したら 

 

僕らは なにかで あることは 

 

あり得るだろうか 

 

僕らの心は  それを 

 

支えるだろうか 

 

昆虫に 自己はあるだろうか 

 

彼らは  なぜ生きているのか 

 

という 状況など 

 

一体  あるのだろうか 

 

心があるから 人間だと言うの 

 

ならば 

 

動物の 心とは 

 

なんだろうか 

 

犬の顔は  どうして 

 

飼い主の顔に 似るのだろうか 

 

僕らは ほんとうに 

 

なにかに 似せて 生きようと

 

しているのだろうか 

 

 

夜の うぐいすよ 

 

僕の 心臓を  温めて 

 

くれ 

 

 

きらびやかな 啼き声でも 

 

いいから 

 

僕に 親し気に

 

歌ってくれ 

 

 

この悲しみが  

 

君の  歌声に 

 

昇華されるように 

 

僕の 心が 

 

舞い上がる ように 

 

 

僕を 

 

 

この 心を 

 

 

温めてくれ 

 

 

 

 

 

 

:::

 

谷戸山公園にも近隣の林にも

 

うぐいすは啼くが、その声は

 

千変万化でホーホケキョ、と

 

啼くうぐいすはいない。

 

そういう綺麗に啼くうぐいすの

 

籠の隣に置いてもらって歌の

 

下手なうぐいすは上手なうぐいす

 

の鳴き声を真似するらしい。

 

どうして真似するのが下手な方

 

なのだろう?上手な方が下手に

 

真似してダメになってもおかし

 

くないのに。

 

近頃は一本調子で啼くうぐいすを

 

聴くことが多い。キーキーキー

 

ホケヶキョッとかで、キーが長い。

 

4,5秒伸ばしている。始めは

 

うぐいすだと気づかない。

 

でもうぐいすは人に付いてくるか

 

のように多少の距離は付いてきて、

 

脇の木陰で啼くのだ。

 

公園でも同じヶ所で、人が行くと

 

啼いている。なんらかの合図を

 

しているようにも思えるし、

 

人に聴かせるのを習慣・習性に

 

しているようでもある。だから、

 

脇で断続的に啼かれると、うぐいす

 

が上手な啼き声を真似たりや、通り

 

かかる人に対してどういう感性を

 

持っているのか気になってしまう。