どうやら大きい仕事に手を出す

 

日も近いのらしい。これまでの

 

ようにブログのジャーナルを

 

書いていればそれでいい、という

 

わけにもいかなくなったのか。

 

(そう思いながら何十年が経った

 

のか)

 

順調に書いていた時は、やはり

 

夢に生きていた日々だったと思う。

 

夢に入っている自分があった。

 

それが抜けて我に帰るから、わか

 

るのだが、今いち染み入る感興が

 

感じられない。それはふつうに

 

夢見る感興なのだが、夜風の

 

隙間を縫うように、夜に滑り出し

 

てゆく自分はいなくなった。

 

 

悲しくもなく、寂しくもない。

 

それがないから、どうでもいいの

 

ではなく、僕ひとりに対しては

 

必要のあるものではなくなった

 

からだとも思う。その肝となる

 

観点がテーマとしてくっきり

 

見えれば、書き出しているのは

 

眼に見える。

 

でも、そうではない僕には未知で

 

ある何らかの契機というもの、

 

それが僕を通過する、その前夜だ

 

ということらしい。わかったような

 

わからない話になるしかない、とい

 

う不明瞭な話だ。

 

わかっていることに迷うのは難しい

 

はずなのだが、「わからないとわか

 

っている」ことに迷いは付き物だ。

 

その言葉は文章の綾によるものだと

 

言っていいが、僕自身にとっては

 

綾ではなく、現実だ。それが食べ物

 

だとわかるのなら、食べているだろ

 

うが、わからないものなのだから、

 

どう対処すべきかは、それの端緒

 

でも知らないと、始末に困る。

 

 

昨日は困った本を見つけた。「霊操」

 

というのだが、道元などを扱う仏教

 

学者がキリスト教徒で門脇佳吉という、

 

彼が聖イグナチオ・デ・ロヨラの書い

 

たそれを訳している。それがキリスト

 

教の瞑想であり、仏教の瞑想であると

 

しているのだが、実は違うのだ。

 

キリスト教の瞑想は神を呼ぶために

 

想念で神を構築しようという、一種の

 

創造行為である。仏教の瞑想は無への

 

観照であって、想い自体も捨て去らね

 

ばならない体のものだ。片や神をつく

 

る、片や想いの元から滅する、という。

 

しかし、本はある。どのようにその

 

矛盾をまとめたのか、それとも一方的

 

にどちらか、あるいは両方を捻じ曲げ

 

たのか。

 

これも読めばいいだけだから、図書館で

 

借りてきた。

 

仏教についてそろそろ書こうと思って

 

いたところへ、こういう枝葉の問題が

 

挟まって来るのはどんどん先延ばしに

 

なるので無視したいのだが、どうも気

 

になると、そうもいかない。それに

 

道中で目の前に現れた問題には向かわ

 

ねばならないと決めている。

 

なので、自分の意思とは関わりなく、

 

進路が少しズラされる。

 

その問題の本質はまだわからないの

 

だから、それに当たるのが正解なのだ

 

とはわかる。

 

 

昨日、奥歯を抜いた。メリメリッと

 

いう音がして、僕は抜いた歯も壊れ

 

たと思ったが、意外に持って帰れと

 

渡された奥歯はしっかり歯の形だった。

 

出血は2時間くらいで止まるような

 

言い方であったが、取り換えるガーゼ

 

の丸いのを12個もらったが、血は

 

止まらず、6時間で少し量が減ったな、

 

というくらいで他のガーゼも使い、

 

寝る時は、やはり睡眠中にガーゼが

 

のどに詰まったら危ないので、なしで

 

寝たが、止まったようだ。

 

もういつ歯を抜いただろうかと思い

 

出そうとしてもまったく記憶にない。

 

 

図書館で「安倍晋三回顧録」を予約

 

しようとしたが、近所では予約6人、

 

隣りの市の図書館では11人待ちだっ

 

た。11人を待っていたら、半年が

 

経ってしまう。で、購入した。

 

安倍晋三がそれほど興味を持たれて

 

いたのは新鮮だった。

 

 

旅に出るように日本を放浪したいの

 

が、たぶん、本音なのだろうが、それ

 

ができないから、精神事項であちこち

 

精神作品をつまみ食いするということ

 

らしい。それも気まぐれだろう。すぐ

 

に趣旨を換えてしまうかもしれない。

 

つまり、生きている限り精神は尽きな

 

いという処か。

 

だが、この世についても、人について

 

も最後はわからないという点があって、

 

それはその「点」においてわからずじ

 

まいになるのだろうと、前もって思う

 

自分がいる。

 

だから、こうして論旨のあやふやな事

 

を書いていても、それが自分という人

 

を安心させているのだろうな、と納得

 

する。僕は僕の中の精神、つまり自分

 

とそういうことでコラボしてやって

 

行けるのだと思う。それはまた、僕が

 

そうしたから、僕がしたということな

 

のだ、とも確信するのだ。

 

そういう矛盾についても詳しく書いて

 

もいいな、と今、思った。

 

僕はこう思うのだ。日本の気の中、

 

または東南アジアの気の中には、神

 

はいない。これは確かなことだ。

 

しかい、今日思ったのは、アメリカ

 

に行ったら?フランスやイタリアに

 

行ったら?もしかしたら、空気の中

 

の歴史の残滓に神の匂いがまだ感じ

 

られるのかもしれない。

 

自分の日本での、東南アジアでの、

 

オランダでの、インドでの、どこで

 

もその文化の気の中に一神教の神は

 

いなかった。

 

しかし、人肉まで食う文化のある欧州

 

ならば僕の錯覚・誤解が訂正される

 

のかもしれないと、わからないが、

 

気がついた(思った)。