人生というのは言葉ではない。

 

それを感じるのは、その言葉を

 

聞いた時ではなく、それを感じて

 

言葉が出てきた時だ。

 

僕らはそれを言葉から想像したと

 

思ってしまう。そうではない。

 

人生は自分と重なる唯一の

 

生命体のようなもの。

 

それが出てきた時に一瞬でそれ

 

を言葉にしてしまう。その言葉

 

を自己内で反響のように聴いて

 

心には言葉が殿堂のように居座る。

 

 

ウロボロス。

 

何もないと言う時、そこにはもう

 

言葉が居る。だから、噓を言わね

 

ばならない。何もいなかったのが

 

ほんとうだが、意識が働いた瞬間

 

からそこには概念世界が構築される。

 

心には言葉が満たされ、僕らはなにか

 

わかった気になる。そうなれるから

 

こそ、そうなるのに慣れるのかもし

 

れない。そういう時の自分の目的

 

は意識が働いている時だけ、自分を

 

確かめることだが、これは秘密裡に

 

行われる。そして、自意識にそれを

 

確かめる確認の自意識は存在してい

 

ないから、それをチェックしように

 

も自意識を差し向けるしかない。

 

かくて自分で自分を探すという、

 

犬が自分の尻尾を追い回すような

 

展開が心で行われようとするが、

 

これをするには意識が二つ、同時に

 

なければ行えないので、成功した

 

試しはない。

 

すぐにできないと感じるから、その

 

場でやめて、次回はない。そこで

 

そういう経験は誰しものことなので、

 

自意識という二次的に生まれた、

 

言葉(というもの)から逆の方向で

 

物事にたどり着こうとする。言葉が

 

心で君臨することになる。

 

言霊が生まれる由来である。それは

 

信頼を土壌としている。何の信頼か?

 

(無意識の自己が)自分を確かめられ

 

た安心かもしれない。その3歳くらい

 

から十年の積み重ねで自己は心の中心

 

に位置することを得る。そして、自分

 

は確かに存在するのを確認して、自分

 

で考えて行動しているという形態を

 

信じる。自分で考えているのは正しい

 

見解だが、その自己が内容(顔つき・

 

体つき・名前・性格・考え方・信じる

 

もの)とともに唯一無二のように自分

 

であるという誤解を背負ったままに

 

なる。

 

これは自己の確立ではなく、自己の

 

“心のなかでの地位” の確立である。

 

なので、この地位を失うのを最も

 

恐れるのが自分(という自己)である。

 

つまり、自分は自己が存在しない

 

ことがバレるのをいつも恐れると

 

いうことである。自己は存在する。

 

それは唯一無二の自分という人間の

 

生まれつきの表象ではなくて、後

 

から追加追加で建て増しした住宅

 

のような普請で、脳の構造によく

 

似ている。

 

自己を確立しないと、そこからの

 

発信や受信ができない。それは

 

知性の比較思考や分離思考によっ

 

て(物事がわかった気になるだけ

 

だが)物事への対応ができなくなる。

 

子供が無知で判断ができないという

 

のはそこから来ている。

 

また、これは物質の分離と再生とい

 

う人工には欠くことができない技術

 

や考えをもたらす範囲で役に立ち、

 

主に科学の分野でその延長である

 

インフラなどの文明に貢献する。

 

 

自己と知性は同じものだが、その

 

機能や作用は兄弟のように別々の

 

役目があり、表になったり、裏に

 

なったりして、その正体が見極め

 

難い。

 

僕らは見たものを信じるというが、

 

見ただけではそれの映像を網膜に

 

映しているに過ぎない。それだけ

 

でも、例えば色がついているだけ

 

でも、モノクロから彩色に変化

 

すると驚いてしまう。感動がある。

 

しかし、見たものを瞬時に言葉に

 

置き換えることを長年して習慣に

 

してきたので、ほぼ感覚は棄てら

 

れて、判断はその映像を言葉に

 

置き換えたものに拠って判断される。

 

それがものの置換や比較に拠る認識

 

というもので、美術品や芸術という

 

ものでない限り、感覚に映ったもの

 

はほぼ省かれてしまう。人の顔も

 

印象だけで、誰誰さんか名前がわか

 

ればいいので、似顔絵を描こうとし

 

てもまず描けない。認識が優先され

 

ている。

 

むしろ、それが危険を速く避けるた

 

めに有効ではあるが、そのために

 

ものの感覚や気という有り様は棄て

 

られる。

 

そうして、心は頭で考えることで

 

満たされ、認識ばかりになり、整理

 

が追いつかないので、未決着やわか

 

らない問題に絶えず不安になり、

 

悩ませられる、という結果につなが

 

っている。

 

必要なのはそういう自己に対してだ

 

と思うのだが、自己は潜在的に自分

 

が元々存在のものではないことを

 

知ることを恐れているので、それを

 

死に例えて、わからないものを自己

 

のある本人の心に教え込むことで

 

避けようとしている。

 

なので、自分を擁するプライドに

 

抵抗することに自分を立てるのを

 

嫌がる。生活で喫緊に必要なこと、

 

命にさし迫る危険とか、給与

 

(生活資金)のための仕事や、

 

子供や家族を守る行動、受験勉強

 

などの場合を除いて、嫌なこと、

 

苦痛や面倒を伴うことなどは避け

 

ていく。それは普通のことだが、

 

僕らは密かにこれはしておいた

 

ほうがいいと感じたり、考えた

 

ことでも避けるようになる。

 

得意なことばかりをしたがり、

 

不得意を避けるのと同じ。

 

別段、それが悪いのではないが、

 

それは心の偏向を生みやすく、

 

考えること、感じること、体の

 

機能のどれかが衰退して、

 

未発達になるのを助ける。

 

特に考えるばかりの人、気持ち

 

ばかりの人の、そのように偏っ

 

た場合は知性と感情の融合とい

 

う理性の発達が遅れ、年齢とと

 

もに人の気持ちがわからない、

 

人の考えが読めない、という

 

人間関係に重大な支障をもたらす

 

傾向が自分の中で強まってしまう。

 

人の気持ちは無視しているくせに、

 

私(おれ・あたし)の気持ちがわか

 

っていないとばかりに自分の気持ち

 

を無視するなと主張をする人、また

 

人の考えを理解しないで、自分の

 

考えをわからないのは馬鹿だと考え

 

て、相手の気持ちや気持ちからの

 

考えという不完全燃焼になってしま

 

う論理を理解できずにそれを軽蔑

 

する人は、同じような穴に落ちて

 

いるのがわからない。

 

これは生と死というものが生存の

 

上で完全にバランスを崩している

 

ことから起きている。生と死は

 

そう見えることが誤解なのだが、

 

死に損なった人が一番よく生の

 

素晴らしさを賛美するように、

 

死と思われてるものと、うまく

 

生活のバランスを取れたものが

 

生活は自然に流れる。

 

自分を知る、というのは自己から

 

は自分の骨を見せるようなものな

 

ので避けねばならない。が、自己

 

を知るというのは、知性からは

 

ものを知る探求になるので、プラ

 

イドも刺激され、何かその方法に

 

手を染めるが、自己からは嫌だ、

 

苦痛だという情報が満載に入り、

 

阻まれる。そこでなにか認識で

 

自分を納得させるという妥協が

 

入って、自分を知るのではなく

 

わかったような禅問答とか哲学・

 

論理事項で自分に皮(概念)を

 

被せる。

 

 

ここからは川の河口になって、海

 

に流れ出すだろう。今は航海の

 

準備はできていない。

 

ただ書いていたら、ここに流れ

 

着いてしまったことらしい。

 

天才がどうして社会的に天才と

 

呼ばれるのか、どうして彼らは

 

世間という常識を覆すのか、

 

どうして彼らは全員変人で、

 

どこかに精神・神経障害がある

 

のか、そこから僕らの習慣や

 

歴史、その時代が、時代ごとの

 

常識が精神に形成されるのか、

 

それが「引き継がれる自分」の

 

総体でもあるということも導き

 

出される。

 

わかっているなら書けよ、と

 

言われそうだが、書くものなら

 

知っている。

 

それは例として、人間とは何か。

 

僕らは一目で観て、知っていそ

 

うな気がするが、では書いて、

 

と勧められても、途方に暮れる

 

ほどにそのテーマは大きい。

 

大き過ぎるとわかる。わかる

 

から、簡単には書けないのだ。

 

イタリア語も知らないのに、

 

イタリア人をつかまえてイタ

 

リアのことを聞いてくれ、と

 

依頼されるようなもの。

 

まずイタリア語を勉強しよう、

 

そうだろうか。それと同時に

 

、または近時に実際にイタリア

 

に行ってみることだ。

 

自衛隊の演習の見学がある。

 

行ったことはないが、そこで

 

撃たれた砲弾が丘をつんざく

 

轟音や砂煙、匂い、振動などを

 

味わって、味わったからこそ

 

それが自分らに向けて撃たれた

 

ら、と想像して初めて武器の

 

恐ろしさを知る。

 

ゲームや動画や映画でそれを

 

観ても、まずかっこいいな、で

 

終わってしまう。直接の経験の

 

ないことはその程度の低レベル

 

(概念)での知る、ということ

 

だ。それが自分の機能の知る、

 

という程度で、僕らはその「知っ

 

ている」という気になっている

 

だけなのだが。

 

見たり、聴いたり、感じたりする

 

ことはなにかそれを行う主体が

 

あるから、そこに自分があると

 

認識している、知っている

 

(つもりな)のだが、自分は

 

自分をそのようには区別できない。

 

比較する自分となるものがいない

 

からだ。それは自分には自分が

 

見えていないことを示す。客観の

 

自己は存在していない。それは

 

二番目の自己だろうが、いれば

 

どちらの意志で生きるのか、混乱

 

しただろう。

 

ふつうに自分と対話するという

 

のは、自意識のうちでAとBという

 

自己を想定して交替に語らせる

 

もので、自意識は分裂しない。

 

自分一人が二役を演じる。

 

僕が経験しているのは、それとは

 

異なり、自己喪失で強制に意識を

 

拡張すると、無意識層に達して、

 

僕らの五感も自意識も届かない。

 

通常感覚では気絶したように

 

何もなくなるが、未知の感覚が

 

働くようで、10年も20年もそこ

 

に通じようとすると、ある程度

 

の大きさとか顕著な感情的特徴

 

が反射的にわずかに感じられる

 

ことだ。残念なのは、検証が

 

ほぼ100%不可能だということだ。

 

そこでは自意識を見る無意識の

 

考え方というようなものが得ら

 

れる。反射された事実を受け入れ

 

るだけなので、如実に感じる

 

(それが微細であれ)というしか

 

ないものだ。

 

が、そういう不可思議に近い

 

ものの存在は疑えない。臨死

 

体験と似ているが、僕にはその

 

どんな映像も感覚もない。

 

それが来てみてわかるという

 

もので、僕が観察した結果とい

 

うものではない。僕らの感覚で

 

はそういうもので、始めは向こう

 

からやって来る。

 

 

少し、海岸をさ迷ってしまった。

 

もう東洋と西洋の違いがはるか

 

彼方に見え始める気がしてきた

 

が、迂闊(うかつ)には自分を

 

信用すまい。