調子がいいのだろうが、こうも
いろいろとふとした詮索の思考
が穿つとテーマがバラバラに
重なり合い、始末がつかなくなる。
毎日書くのを抑えて、1日だけ
それが効くようにのつもりが、
結局はいつも(毎日で、隔日で)
書いている状態が続く。
今日も、ポイントだが、書いて
おかないと、またどこかへ行って
しまい、書いておけばとわずか
に後悔する。すぐ忘れるから、
書かなくても同じなのだが、後で
読むだろうと自分に期待するのだ
が、その時以外で読み返しは少な
く、あまり期待に沿ったことがない。
恐れることのピンポイントがテーマ
になる。恐怖は強い感情だと僕らは
通常感じているが、恐怖の感情は
知の真ん中で生成されているようだ。
発見のきっかけは、階段を昇ってい
て、最後の段に近づいて、急にわかっ
た。怖さが来たのだが、それを感じ
た因は考えた(記憶)ことだった。
照明を点けていなかったので、暗い
中であと数段昇れば、終わりだった
のだが、段数を間違えていた。13段
あるのだが、12段を数えて終わりだ
と思ったその瞬間、間違いに気づい
た。
しかし、それで安心したのではなく、
それも間違いだったら、13段目は
なかったら、と考えたら、恐怖に
襲われたのだ。
それは五津列島で家の近くの堤防で
眼を閉じて堤防を歩いて、落ちる前
に眼を開けるという実験(遊びだが)
をして、ふっと足元が消えて、計算
で落ちるはずのない海に落ちたこと
を思い出させた。
その次には恐怖がぬぐえず、まだ
目を閉じていても大丈夫だと、計算
出来ていながら、だいぶ手前で目を
開けてしまう、という不甲斐ない
結果に終わるのだった。
この落ちるを前にして、目を閉じた
まま歩み続けるのは、非常に勇気を
必要とした。
その後も数回、試みたが、死ぬ気に
なれば、海に落ちるだけだ、と思う
のだが、計算の歩数まで達するのが
ついにできず、予定の80%で恐怖が
押し寄せ、足が止まる。
頭では大丈夫と、わかりながら妥協
しなければならなかった。
悔しかったが、再チャレンジの機会
もなく、島の家はコロナで手放すこ
ととなった。
これまでのチャレンジを考えると、
それほどの難関ではなかったのだが、
なぜか克服しない(少ない例)で
終わった。
家の暗い階段を昇るなど、何万回も
あっただろうに、思い出せば、そう
いうちょっとの恐怖を覚えたことは
あったと。
これは階段を踏み外すという物理的
な危険への恐怖だが、原理はどの
恐怖も似たものがあるという気が
する。ちょっとした予測を思考の速さ
でして、それが心を揺らすのである。
慣れている日常の所作であれば、すぐ
に気持ちの態勢はもとに戻せる。
それが自分の気持ちや心理を圧迫す
るような、すぐには解決しないこと
の場合は、恐怖は膨らんでゆくの
かもしれない。
この世に怖いものはほぼいないし、
それに出会うのは千載一遇だと
思ったのは、夏に真っ暗な河原の
林を歩こうとした時だった。なに
が怖いのか、幽霊か、野獣か、蛇か、
毒蜘蛛か、男女のペアか、・・・・
それらをひとつひとつ、洗って、実際
出くわした居た場合を想像して、どう
なるか自分の胸に聴いてみた。こんな
河原に危険は少なかったし、真っ暗
といえどどれも怖くなかった。
それで怖いものは河原にいないと決断
すると、恐ろしい速度でその林を走る
ように歩いた。まさに怖いものなしで、
木の根につまづこうとしても、それを
察知した瞬間に避けることができた。
ガンガン歩いた。それから後は、どん
なに暗い場所でも恐怖を感じることは
なかった。
階段ごときで恐怖を瞬間でも感じる
のは、足の筋肉が弱くなるという
老化の一環である。転びやすくなっ
たのだ。しかも、一回でも転んで、
骨折でもすれば、入院、足の筋肉は
衰えて、リハビリでも戻らないだろ
う、そういう境遇なのだ、高齢とい
う世界は。無様なものだ。
もう恐怖は克服したものと思ってい
たが、もう今までの運動神経を取り
戻せないのだから、今度は当たり前
に恐怖と戦わなければならない。
内面の恐怖はあらかた取り除けた
から、外から来る一方的な事故に
注意が必要になる。
それだけなので、思えば、それほど
の負担ではない。僕らは主に社会や
人やものとの不適応な関係になって
その影響に怯えるが、それは自己が
自分を理解しないことから来る問題
だから、心のバランスが取れる人に
は問題はない。
一時的、あるいは一定期間(ほぼ短期
間が多い)の我慢・忍耐が必要になる
時があるだけだ。
問題や悩みが長引くのは、それは
自分が自分でも気づかずに、内面
で問題を長引かせる工作=こだわり
を持ち続けているからだ。
それが感情の問題であると、心根
に着地するので、ふつうに長引く
結果になる。どこにでも見られる
因縁を作り、深める操作だ。
誰も自分が囚われてしまって、その
心理状態のまま問題と相対すること
になるのが、その重要原因だとは
思わない。それが特徴でもある。
自分と問題を区別して見分けるには、
客観的とかの言葉ではなく、自分
(先入観などの思考)に囚われない
でいる、その眼・耳の思考に囚われ
ない感覚が必要になる。大人になる
と、子供のようにただ見る眼を失っ
ている。
予想できないから、そこに悪い
結果を瞬間に呼び込んで、恐怖に
捕らわれる。そして、囚われなけ
れば、またこだわらなければ、
と思うのは簡単だが、そういう人
だから自分も相手も互いにそれに
対応しないで自分の頭だけで決め
つける。
それだから、いくらでも“そうでは
ない考え”があるのに、それに辿り
着かない。そして、マイナーな2,3
の考えに閉じ込められて、自分で
自分を追い込むのが常である。
悪くしか考えられないのなら、
その考えから異なる、明るい
考え方が必ずあるのであるが、
それがこの世の法則だとは知ら
ない。知性は過去のデータとい
う人の記憶・知識から事柄を組み
立てるから脱出となる飛躍した
発想ができない傾向にある。
どうして人は不甲斐ない自分を
信じる方向に染まるのだろう。
神様になって全部見えたなら、
そういう負の自分を信じている
のは自分自身の狭量さだと眼が
開かれると思うのだが、・・・
・・。
僕の母親は世間がわからない人
だったが、自分を捨てて裸になる
ことができる人で、高齢で父と
折り合いが悪く、それは長い結婚
生活でほぼそうだったのだろうが、
離婚したくて、親戚を回って、訴え
た、離婚したい、と。
たぶん、出来ないと知りながら、
誰かに止めてほしい気持ちだった
のだろう。不仲は留まることが
なかったが、なにしろ、頑固者と
強情っぱりの二人だった。
最後に妹の旦那に、逆説法で離婚
しなさい、と言われて離婚熱が
冷めてしまった。股関節に持病を
抱えていて、歩くのもつらい気の
毒な生活で幸福な晩年ではなかった。
だが、彼女は自分をさらけ出して、
訴える実行力には見事なところが
あったと思う。
離婚しろ、と言われて現実の考え
に戻ったのだ。自分一人で考え
込んでいたら、憂鬱で睡眠薬の量
が増えていただろう。
恐怖は現実ではない。自分の近未来
の不幸を現実と思う、妄想を大げさ
に捉えたものだ。しかし、捉えられ
るという自分の気運を破る行動を
とれなければ、いつまでも沼に沈ん
でゆくようなものだ。
なにか方法はある。今日の今ではな
いかもしれないが、それにしても、
その不幸な考えがどう正しいのかは、
自分では確かめられない。誰かに
聞く必要がある。例外はあるが、参考
にいくらでも、誰にでも聞くがいい
のだ。
それが嫌なら、それなら勝手にしろ、
と家族に言われてみることだ。
僕らは自分の正義・正しさが正しい
のだ、間違っていないのだという夢
を見たい。それが絶対の正しさ・
正義という空想であり、夢であるの
だが、認めたくないのだ。
どこかで現実に出会わなければ、
僕らの人生も希望も、なにも進ま
ないのだから。 5.11
どうして恐怖はその時、それほど
までに拡大してしまうのか。それ
は抗えないほどの巨大な黒雲に
見える。
僕らは朝、目覚めると意識が同じ
瞬間に目覚め始め、自意識が働く
ようになる。とは言っても、その時
自意識も知性(思考)も時間も
同時に働きだす。なぜだろう?
僕にはそれらが同じ自分という
ものから派生した、言葉の違う
自分に他ならないからだ、と
思える。
その時、自分とは、時間の始まり
であり知(思考)の始まりであり、
自意識の始まりなのである。
派生であるから何から何まで同一
の内容・指向のものだという意味
ではない。
それぞれが重なりあいながら、
それぞれの個性は性質を似たもの
ながら、多少は異なっている。
それは例えれば、流動的な同心円
の渦から生まれる、岸辺の泡や
小さな支流のようなもので、季節
(その時々で)によって盛衰を
くり返す。
知性と自己は非常に近いもので、
その恐れは、自己喪失だろう。
それは肉体よりも精神のうちで、
精神である自己の喪失を恐れる。
知性は「なぜ」と尋ねるその
「なぜ」を尋ねることはできるが、
尋ねる主体の「我」がなくなると、
知性も喪失してしまうので、まず
アイデンティティの喪失を恐れ、
同時に「我」という肉体の喪失=
死を恐れる。
それは我(自分)が疑う(知性)
ことの主体でありながら、自分を
失うと、知も失われてしまうと、
よく知っているから。
自分というのは、そこにできた
虚無という穴になんらかの存在で
ある、我は存在していると言える
ものでありたい、のである。
この死への恐怖の歴史は、根源的
に長い。僕の一応総合的な推測を
言ってみたい。
人類が類人猿になって、どこかで
脳の発達段階で手に入れた自我と
いう観念はただの算数の計算程度
ではなく、算数を俯瞰して、それ
を数学として扱う概念の道具とし
ての思考を立脚させた。
3000万年前から700万年まえのどこ
か、という訳のわからない話である。
そのどこかから僕らは、この考える
ということがまず、人間の拠り処だ
と考えた。まさに自分で自分を定義
することで、定義を安定と捉え、
不安定な、最初は自然災害からの
拠り処と考えた。それは地球環境が
恐竜から小動物たちの環境になって
から、生き抜くうえでの武器になった。
だが、もともと自然環境から生まれ
たと考えるには無理がある。
外的な力・影響が加わったと考える
のが、僕は妥当だと、結局判断した。
僕はそれは(内容では)わからない、
(まだまだ不明)と言っているだけ
だ。
すると、社会生活というものがいか
に精神生活を支えているかがわかる。
と書きつつも、テーマが転調してし
まい、恐怖からは逸れてしまうのも
明らかなので、それはそのうちに
別の項目で書くだろう、とする。
僕は世間一般での恐怖からは自由
だろう。全部の恐怖から自由だと
はとても言えないが、死が恐怖の
対象として強くないので、その差
が大きいのだ。
恐れとは
僕らが 知っていないものから
だが 空想や記憶から 来る
知っていると 来ないのか
知るのは それが
経験に ないこと
どう対していいのか
その方法が ない ないと
自分の無能さを 知る時
恐れは 極限まで
だから それに勝てると
思わなくて いいのでは
ないか
僕らは 正しく生きようとする
責任を 放り 捨てる
(それは それだろう)
勝てないし 正しい身の
処し方も ない
正義も 善も 憐れみも
なく (それも そうだ)
としたら どうして
そこまで 行っても
自分を 捨てないのだろう
自分を なぜ 捨てないのか
意味が わからないなら
捨てたことが ない から
なのだろう
考えるのは それでどうなる
とか ではない
捨てた経験で 何が
見えるのか 見えないのか
それが 凄そうだ
その 一部なら
:: 人によって 見えるものが
違うなら
それは 現実の人生に
自分を見ること ではないか ::
一応、続く、・・・だろう。