🎍Happy New Year 2026🎍
村元哉中さんが 2024 年の総括で書いていた一文を、今年の私自身の応援のポリシーとして引用したいと思います。
(※2024 → 2025 に変更しています)
"2025 taught me the importance of perspective, setting boundaries, and my personal values."
2025年が私に教えてくれたのは、物事を多角的に捉えること、境界線を引くこと、そして自分自身の価値観を大切にすることの重要性でした。
特に “setting boundaries(境界線を引く)” という言葉は、今の私にとって大きな意味を持っています。
私は“濁り”とは明確に線を引き、その価値観に反するものは購入しません。
ここでいう“濁り”とは、不祥事を起こし謝罪文を出したにもかかわらず説明責任を果たさない人物や、その状態を許容し続ける構造や一部のファンダムを指します。
その謝罪文も、説明責任を果たしたとは到底言えないものでした。
実際の謝罪文では「報道に一部誤りがあるものの」と記載されていましたが、その“一部”とは何を指すのか。
日本であれ他国であれ、説明すべき点は説明されるべきだと考えています。
私が線を引いているのは、“説明責任を放棄したまま無条件の応援を求める構造”そのものです。
境界線を引くことが、しばしば否定的に受け取られてしまう空気もありますが、本来、境界線とは自分の価値観を守るための健全な行為だと思っています。
私が高橋大輔さんに求めているのは、○○だいの馴れ合いの空気でも、仲良しアピールでもありません。
高橋大輔さんが氷上で見せてきた、あの孤高の姿です。
私が惹かれてきたのは、高橋大輔さんの、圧倒的なシングルの演技だけ。
そして私は、2024年7月11日から、あえてそのシングル時代の演技を観ることを封印しています。
いわば、願掛けのようなものです。
しかし、今の状況を見ると、私が願い続けてきたものとは大きくかけ離れていると感じています。
だからこそ言いたい。
説明責任を果たすこともプロの仕事ではないのか。
(プロという言葉も謝罪文に書かれていました)
それを放棄したまま馴れ合いを続けるのなら、私は“無条件の応援”などしない。仮にそれが解消されたとしても、もう無条件に応援することはないと思う。
Fスケの現状、漏れ伝わる状況を見ても、再入会など到底できません。
私は現状、遠征ができないため、チケット購入のために入会される方を批判しているわけではありません。応援の形は人それぞれです。
こうした違和感を抱えたまま、村元さんの年末年始の投稿を改めて見返しました。
そこには、いくつか特徴的なハッシュタグと、一定のパターンが見えてきます。
まず目についたのは、
#2025recap
#closingthechapter
#PHOTODUMP
といった「章を閉じる」ことを強調するタグの多さでした。
本来であれば、振り返りとは「何を学んだのか」「どのように受け止めたのか」を言葉にする行為のはずです。
しかし今回の投稿では、具体的な内容には触れず、“まとめる”ことだけを目的化しているように見えました。
また、「来年も心を込めて自分らしく前に進んでいきたい」という一文は、自己肯定系インフルエンサーのテンプレートのようで、過去への向き合い方や説明責任といった重い部分を避けるための“軽さ” がどうしても気になりました。
ストーリーには初日の出の写真に続いて、スヌーピー“風”のキャラクター画像を使用した投稿がありました。最近のSNSでは、イラストと短い自己肯定文を組み合わせた“名言カード”のような画像がよく使われていますが、今回の投稿もまさにその形式でした。
投稿された時間帯も気になりました。
日本では深夜に近い時刻でしたが、北米ではちょうど元日の朝にあたります。
北米では “New Year’s morning post” と呼ばれる文化があり、新年の抱負や名言カードを朝に投稿する人が多いと言われています。
これまでの投稿傾向(北米時間に合わせた発信)とも一致しており、今回も同じ方向性で構成されているように見えました。
BGMは “Auld Lang Syne” のピアノバージョン。日本では「蛍の光」として“別れ”の象徴ですが、英語圏では新年に歌われる曲でもあります。「古い章を閉じる」「過去に別れを告げる」という象徴性がさらに強まります。
しかし、そこで添えられていた英語のテキストは、スヌーピー(Peanuts)の哲学とはまったく異なるものでした。
“新しい年だからといって、新しい自分になる必要はない。そのままのあなたでいい。少し優しく、健康で、幸せになればいい。”
一見すると優しい言葉ですが、Peanuts の世界は本来、甘い自己肯定とは無縁です。
人生の不条理や弱さを、淡々と、時に冷たく見つめる作品です。だからこそ、私はこの“スヌーピー風”の演出に、作品の哲学を借りて自己肯定を装うような違和感を覚えました。
そして何より、言葉が極端に少ないことが気になりました。名言カードの形式に頼ることで、あえて説明を避けているようにも感じられたからです。
説明責任を果たしたうえでの軽い自己肯定なら、まだ理解はできます。
しかし、今回のように説明よりも先に自己肯定が来る構造には、どうしても違和感が残りました。
“setting boundaries”
そのため、私はここで境界線を引くことにしました。
村元哉中さんが関わるトーク配信やグッズを購入することはありません。
今までもそうでしたが、あらためてここに書き留めておきます。
蒔いた種は自分で刈り取ってください。
説明よりも自己肯定を優先する発信とは、これ以上向き合えません。
そして、それを許している構造とも距離をおきます。
高橋大輔さんのシングル"だけ"を観られる機会は驚くほど減ってしまいました。
ましてや、遠征ができない状況で、ファンでいる意味はいったい何なのだろうと自問自答もしました。
それでも、やはり高橋大輔さんのシングルのパフォーマンスからは離れられません。
今後は、もう少しシングルだけの演技が観られる機会が増えるように。
そして、この濁った状況が少しでも改善されることを願っています。