1951年の永遠の演奏の前では……話題にあがりつつも音質の問題もあり、存在を意識されながら進んで聞こうとすることがなかった1954年のバイロイトの第九。

かの吉田秀和先生が実演を聞かれて感激されたというその演奏がアセテート盤(個人は詳細を知りません。プライベート盤という認識でよいかと存じます)から復刻されて先般発売されました。

同演奏はかつてオルフェオ盤で発売されましたが筆者はそこまでという気持ちが強く手にしませんでした。

かつて『レコード芸術』で音質の限界が触れられていたような記憶があり1942年のベルリンの第九の虜でしたから特別聞く必要はないと感じられました。

徳岡直樹先生の動画を拝見してフルトヴェングラー御大をさかんにお取上げで、触発され良い機会と思いこの度聞いてみました。




1951年の緊迫した空気感とは違い、余裕が感じられて表現がより大きくなり作品の本質に迫ろうとしているかのような自然の姿が垣間見られるかのようでした。
ですから、フルトヴェングラー御大の魔力、魔法のような独特な雰囲気が少し薄く感じられるかもしれませんが、それでも第1楽章のスケールの大きさはこの方の面目躍如、好事家の方でしたらあゝ、フルトヴェングラー御大の音と即分かるでしょう。圧倒されます。

3楽章はさらに滔々と悠然と音楽が進んで、天国的な気持ちになるようでした。
芝居がかったような平和的な事柄を求めてお涙頂戴的な表現ではなく、心臓の心拍数を音楽にしたような、穏やかな風を音楽にしたようなそのような極めて自然的な雰囲気です。これが最晩年のフルトヴェングラーさんのお姿を反映かもしれません。

フィナーレは歌手とマイクの位置が近いのか明瞭でかえってそれが大変魅力的ではっきり聞こえて充実しているなあ、と感じられるほどでした。
最後は例の超高速……で畳み掛けるように終わりますが、多少テンポが落ちて明確に拍を刻んで、少し溜めて終わる……御大に今までなかった表現で作品に寄り添うかのように感じられてなりませんでした。
しかし、その超高速はアンサンブルは崩壊しかけているように聞こえ雑然とした戸惑いもあるようでした。

音質は……ロンドンでのライブの第2番よりも厳しく耳には響くと筆者は感じます。ホール、空間を感じるような響き方ではない(ラジオの音源? でしょうか。オリジナルテープはフルトヴェングラーさんが棄却を求めたそうです)、音だけを拾ったかのような音質で第1楽章ではトゥッティでティンパニで音が潰れてしまいます(しかし迫力はあります)が、些細な問題です。(ただ、細部が明瞭に聞こえないのは残念です。)

1951年と比べて良い、悪いという次元ではなく御大がよりスケールが大きくなった心境の変化を感じ取るべき貴重な録音として捉えて良さそうです。