勤務中、ひと段落した時にふいに自分の食糧のことが不意に浮かんできました。

最近は食べる量が減って、おかげさまで元気に動けたり、集中力が増したように感じますが時としてお肉系の食べものを欲する場合がございます。

勤務中にお肉系の食べものをと、思う一方で脳内で即答するかのように「命をいただいている……」という言葉が浮かんで、嗚呼、生きるということ、食を楽しむということは、左様他の動物さん、植物さんのお命をいただいていることになるのか……と重く感じられました。


似たようなことを再三以前に述べておりますが、日中に命をいただいている……という思い言葉があまりにも印象に残りましたので、脳内に強く響きましたので改めて今日書かなくてはならない、と思われた次第でした。

確かに自身の体内は食を強く求めないようになったのは事実ですが、今夜はすみません、ファミリーマートさんの鶏肉のお弁当が以前から気になっておりましたので今夜からお休みになりますからお楽しみ会よろしくそのような雰囲気でそれをいただきましたが、お腹が張ってしまい少し疲れてしまいました。

賀状作成も今夜は今週で1番出来ませんでしたし、間違いを幾枚か出してしまいましたし、さらに文字が汚くなっていき集中力が切れたかのようです。


それはさておき命をいただく、ということの重さと責任と感謝する心とありがたさが心中芽生えたのではないか、と感じられました。おこがましいですが。


文化文政期の人相見の易者水野南北師は、食を慎むことの大切さを説いていますが、身分のある人間は特にそれに徹するべきだという旨を説いてもいます。

個人は全く無位無官の甲斐性が無い男ですが、食を慎むことで地球が喜ぶことになるのではないか、と飛躍して考えました。

水野南北師ははさらに食を慎むことで供養になる、ともいっておりますから少食、不食は愛に繋がることになるのではないかと思われました。


まだ、ブレサリアン、所謂空気を食べて生活されている御仁が実際に地球上に存在しますが、個人はそこまでの領域には当然ながら未だ成れません。

仙人は霞を食べて生きている、ということは実際にありえる話だったようです。 


しかし、最近の少食不食を繰り返す中で、地球上に暮らす動物さん、植物さんの気持ちといいますか、その生命の尊厳を無視してはいけないのではないか、無為に1日3食いただいて、飽食の道を歩いていくことがいかに愚かで非生産的、非建設的であるかひと段落した勤務中に気付かされたことでした。


飽食、美食のブームの陰に無数の生命の犠牲がございます。

お金を出して、腹一杯くちゃくちゃ食べてゴミは適当に放り捨てて当然という無神経さが多く世間にはあるでしょう。

生命はお金では買えませんし、お金より遥かに重く尊いはずです。

適当に腹が空いたからといって、むしゃむしゃ無駄に食い尽くして満足して終わり。というのは高尚な生き物たる人間がする行動ではありません。


貴重な尊厳で重い生命を今日も今日とてありがたくいただいております。これが感謝ということではないでしょうか。

今日はその食の慎みの大切さ、いずれは超少食、不食への道を示されたかのような出来事がございました。