ショスタコーヴィチの肉迫した作品、ありきたりですみませんが、交響曲4 5 8 10……をユーチューブでムラヴィンスキーさんとコンドラシンさん、スヴェトラーノフさんたちの演奏を改めて少し聞いてみる(実際は5 8 10番です)と、なるほど最近の例えば、ネルソンスさん ボストンシンフォニーの全集進行中の演奏、ヤンソンスさん ロイヤル・コンセルトヘボウ管、バイエルン放送響との演奏、あるいはヴァシリー・ペトレンコさん ロイヤル・リヴァプール・フィルとの全集、ゲルギエフさん キーロフ歌劇場管の演奏など大変に優れたオーケストラの機能美を堪能できる優秀な演奏と音質に満足……ですが、すみません、なんだか物足りなさを感じてしまいました。
前者3人のマエストロと今のマエストロたちの差はなにか。
感情の問題、技術の問題、才能の問題……それは確かに全て絡んでいると思いますが、昔の絶叫にも似た表現は、なぜ今の指揮者、ショスタコーヴィチの作品に限らず、ベートーヴェン 、マーラー 、ブルックナー 、チャイコフスキー に至るオーケストラの作品において全てに通じることですが繰り返し申し上げていることで、滑らかに薄く美しく表現しようとするのだろうかと感じる時が多いです。
ショスタコーヴィチの交響曲に関しては時として爆発するような、それは最早音楽ではないという瞬間を表現する時が必要な場合があると思いますが、今の演奏家からそのような音、表現は聞けず、ソ連という国はなくなり、大東亜戦争は遠い昔のことになり……人心は豊かになって腐ってしまったことを示しているのでしょうか。
生きている時代、社会の影響は当然あります。それを踏まえて、ショスタコーヴィチを心から演奏できる演奏家は……殆どいなくなった……のかも知れません。
オーケストラの技量に耳がいき、話題性…‥等々でCDを購入して聞いても、表面的なもので終わり、人々が日々の生活の中で阿鼻叫喚して狂ってしまうさま、魂の慟哭までも表現しようというのは時代錯誤でしかないのだろうか、と思います。
人はなにかを常に表現しています。目に見える人そのものからなにかを感じますし、ブログからも感じます。目に映るすべてのもの・ことからなにかを感じ取ります。
その中で特に芸術関係、芸能関係は人々に対して明らかに表現する行為そのものです。
それが低俗で品位を疑うものもあれば、質の問題すらも感じらるものもあります。
本質をつく、えぐり出す、という切羽詰まったもの、命がけのそれが少なく、表面的で薄く無感動なもので溢れた人間社会になったのだろうか、とショスタコーヴィチの交響曲を通して感じたことでした。