明日は全国戦没者追悼式が行われます。

その式典の内容を云々するために今日は書きたかったわけではなく、全国戦没之霊と書かれた標柱に注目したいと思います。


以下画像は拝借いたしました。



1952年から全国戦没者追悼式が開催されるようになりましたが、93年まで(?)は金子鴎亭先生のご揮毫でした。




これは昭和56年の標柱だそうです。

顔真卿の楷書を思わせるようですし、顔法を駆使されて書いていらっしゃるように見えます。

しかしながらすみません、本当に失礼ですが特別上手だなぁと個人はあまり金子先生を感心していません。
書の神様のような先生に対しての失礼、お許しください。

なにかのものの本で読みましたが、金子鴎亭先生は斎戒沐浴されてから揮毫するという内容があり、また当時政府筋に書に詳しい人がいて金子先生を推薦した、というエピソードも読んだ記憶があります。

金子先生は1952、1963〜1993年までご担当されました。


不思議な話で1994年〜1998年が公式に発表されていないのか不明だそうです。(とある方のブログでは金子先生のご子息の卓義先生と予測を立てていましたが)。

下世話な話、揮毫1つでもこれは大仕事になりますし、お金が大変に絡んでくるでしょうから、書家の先生方は自分が、自分がと揮毫依頼を欲しがったに違いありません。



1999年から現在に至るまでは新井光風先生のご揮毫です。最初の画像は2014年の式典の標柱です。今年で丁度20年目になりますね。




北魏の造像記の筆法と字の形を意識されていることがよく分かります。


個人は2002年5月頃、奈良市にある杉岡華邨書道美術館に行き金子先生がお亡くなりになった今、どなたが碑に揮毫しているのか、と事務員さんにお伺いしたところ、稲垣菘圃(すうほ)先生がされていますと教えていただきました。

新井先生ではなく稲垣先生と答えられたことははっきり記憶しています。


最近まで稲垣先生がお亡くなりになる2010年頃まではご担当されていたとばかり思っていました。1999年から新井光風先生がご担当されていたとは……と呆気に取られました。



個人も本当に不謹慎ながら小さな裏紙に筆ペンで書いてみました。普段練習しないのでこの程度です。



話は変わりますが、アジア太平洋戦争で日本は約230万人の兵士と約80万人の一般市民の方々がお亡くなりになりました。

当時の人口が大まかに見て約7000万人弱。約310万人の尊い犠牲が出ました……。

途方もない数字で検討がつきませんし、一面焼け野原の日本と婦女子とお年寄の方々で働き盛りの社会を担う男性が230万人もいなくなった……と考えますと、今の豊かな時代を想像することは当時仮に年頃で戦争に行かされて運良く生き残ったとしても考えは及ばなかったろうと思われます。絶望しかなかったろうと。

それに、アメーバブログで初めて知った花谷正や牟田口廉也のごとき捻くれた愚者が日本の働き手を無為に無駄に犠牲をもたらしてしまったことも書いておく必要があると強く感じ、憤怒に耐えません。山本五十六もきな臭いようで(実は生きていて、アメリカの偽旗作戦の片棒を担いだと指摘している人もいます)……。最近、五十六も嫌いになりました。



よくここまで発展して、豊かで平和な時代を創ることができた……と感慨深く思わざるを得ませんし、310万人の方々のおかげさまで命を繋いでいただいているありがたさを書きながら感じています。

なにもお盆、終戦記念日だけに思いを馳せるのではなく、ありがたさを常に感じて恵まれて生活できていること、常に満たされていることに意識を向けて感謝して毎日生かせてもらいたいと思います。

全国戦没者之霊の標柱揮毫の話から飛躍してしまいました。