グーグルの画像検索を頻繁に利用しますがたまたま目についた文徴明の書。

飾り立てた感じが全くしない、しっかりした線質で古典に立脚した姿勢か好感が持てて、興味が湧きました。

碑の拓本から専ら臨書を学ぶことが多い ー唐代のものあるいは王羲之を行ったり来たりして唐以降の米芾は美味すぎて真似できない、それ以降は目習いこそすれ鑑賞以上に私淑して臨書するまでもないのではという偏見を持っておりますー 中で、この文徴明の書の画像を一目見て、素晴らしい……と今さらながらその良さに惹かれてしまいました。

 







こねくり回した感がなく、すっきりとした味わいがあるようでその中にかなり優れた筆法を見ます。

ウィキペディアで改めて殆ど名前しか認識していなかった文徴明を調べて見ますと、好感を持てる人物でした。

真面目で大器晩成型。生来不器用な印象をウィキペディアを読むと受けましたが、愚公移山、努力の人であったようで、科挙(国家公務員になる為の試験)は20数年
落ち続け、書もなかなか上達せなんだそうです。

しかし、独特の道を変に歩むことなく王羲之、米芾、鍾繇を臨書して上に貼り付けた見事な書を書くに至ったそうです。


文徴明を調べて、彼と交際があって、名前だけは知っていた唐寅(とういん)についても調べました。

画の分野の偉人ですがこちらも人物的に好感が持てました。

楽天家だったそうで、自由人的な生活を送っていたそうです。科挙に合格するものの、カンニングの疑いが持たれて投獄されていますが、才能を嫉妬されからだとされています。嵌められたのでしょう。

そのいざこざに嫌気をさして、半ばフリーターのような生活に甘んじていたそうです。



 


フリーターと表現しましたが、とんでもない画の才能。

見ていて落ち着きます。柔らかな雰囲気がなんともいえない味わいを醸し出して立派な和室を持っているお宅には冴えるでしょう。

癒されると思いますが随分な値段が付いていると推測します。

画から発する柔らかな光、があるような気がします。


このような欲がない、自然と一緒に生きてずば抜けた才能を保持しながら素寒貧な生活を友として生きる文人たちが昔の支那には沢山いて魅力があり、昔旅行して1960年代末までの支那を知っている人などは「昔の支那は良かった」と異口同音に述懐されています。

一方で昔から支那は政治に携わる人の程度の低さ。文徴明、唐寅の生きた時代はいうまでもなくさらに昔から自分の欲望のままに物事を動かして……。

今、表向き隆盛を誇る支那人ですが風流を殆ど忘れてしまったようですし、元々文徴明や唐寅のような人物たちは支那ではもともとリーダーにはなれない国柄なのかもしれません。孔子が最たる例です。

又、時空を超えて新たな出逢いがありました。