指揮者のカルロ・マリア・ジュリーニさんは日頃敬愛している指揮者の1人です。
左上のブルックナーの第7番は、以前海賊盤で発売されていた分と同じ演奏で、すばらしいベルリンフィルの、まろやかさと深みのある響きに何度も何度も聞いた若い頃の思い出があります。ジュリーニさんにしては早いテンポを採用されて、透明なブルックナーに感銘しました。
オーケストラから慈愛に満ちた音を紡ぐ聖人のような(ジュリーニさんを聖人のようだとは確か、ウォルター・レッグの言ではなかったかと記憶します)すばらしい指揮者でした。お人柄も品行方正で人の悪口を言わなかった、また周りも一切悪口をたたかなかった、だから聖人のようだとご本にありました。
カラヤンのようになんでもこなされた方ではなく、徹底的に作品と向き合い十分に咀嚼されてからご自身のレパートリーに加えた、とどこかの解説がありました。
そのような慎重なジュリーニさんを60年代末アメリカのシカゴ交響楽団は首席客演指揮者に70年代末からは若さ漂うオーケストラだったロスアンジェルスフィルがシェフに迎えました。これはメカニック的で外面ばかりがよいアメリカのオーケストラと評される(私は全くそんなことは思いませなんだが)なかで極めて英断だったと改めて思います。
シカゴ交響楽団はショルティさんが音楽監督に就任後直ぐに彼を招くようにと手配したそうです。よきライバルを自らのオーケストラに招くとは。結果、すばらしい名盤を遺してくださいましたので、天の配剤としかいいようがないほどです。
またロスアンジェルスフィルを任さたジュリーニさんは大層喜んで引き受けたそうです。
音楽好きの間ではよく知られている話ですが、大の奥様思いで、ロスアンジェルスフィルの音楽監督を降りたのは奥様の持病で、ヨーロッパにお帰りになるためにそうされたそうです。
来日もごく数える程度ですが、奥様のことがあってのことだったと2ちゃんねるで指摘されていました。その少ない来日の折、クラシック音楽の演奏家の専門に撮られている写真家の木下晃先生がジュリーニさんを撮られた1枚を拝見したことがありますがダンディでした。確かに燕尾服がとても似合うマエストロでした。
来日の話ですが50年代末にイスラエルフィルと来日された折にブラームスの4番を演奏されたそうですが生で聞いて良かったと感慨深く学生時代お世話になった先生が仰っておられました。名前にマリアと付くから女性ではないかと勘違いしたとも。
余談ついでにクリント・イーストウッドさんに似ていると思います。
話を戻しますが木下晃先生は、声をかけようとしたが、なんだか近寄り難い雰囲気があり、そっとマエストロに失礼のないように撮影した……という旨の回顧録がそえてありました(木下晃先生はカラヤンや朝比奈隆さんからも認められた写真家です)。
まだまだお話しは尽きませんが今回の入院では、じっくり鑑賞すべく何枚か持ってきました。
左上のブルックナーの第7番は、以前海賊盤で発売されていた分と同じ演奏で、すばらしいベルリンフィルの、まろやかさと深みのある響きに何度も何度も聞いた若い頃の思い出があります。ジュリーニさんにしては早いテンポを採用されて、透明なブルックナーに感銘しました。
そしてとどめたるヴェルディのレクイエム。全力疾走している姿が伝わってきますが、その60年代当時、プロムスでジュリーニさんがレクイエムを演奏するとチケットが必ず完売したそうです。完全なドル箱だったようです。そのライヴ盤も以前こちらで少しふれました。
ジュリーニさん、フィルハーモニア管弦楽団が本場イタリアでヴェルディのレクイエムを演奏された際は、フィレンツェの歌劇場だったか、そちらのメンバーの方々が演奏に感動してバスに乗ったジュリーニさんたちを見送る際にナブッコの〈行け、我が想いよ、黄金の翼に乗って〉を歌いながら別れたと解説にあり感動しました。
〈行け〜〉はイタリアが分裂していた時分(19世紀中頃のお話ですがすみません、詳しくありません)に当時よく合唱されたそうです。こちらのエピソードも感動します。イタリア人の心に血肉となってこういったすばらしい作品が潜在意識に持っているのは羨ましいです。シベリウスのフィンランディアも同じです。
これからも時折ジュリーニさんのことはこちらで取り上げていきます。